中国の改革・開放に合わせて
日本映画が中国で大ヒット
9月末、工学院大学 孔子学院の誘いを受け、高倉健、中野良子主演の映画『君よ憤怒の河を渉れ』の鑑賞&トークショーイベントに、ゲストとして参加した。
この映画は日本国内ではそれほどヒットを飛ばせなかったが、1978年10月に、中国でタイトルが『追捕』と訳され、上映され、やがて超をいくつか並べてもおかしくないほど大変な人気を博した。工学院大学孔子学院のイベントで『君よ憤怒の河を渉れ』がなぜそこまで人気を博することができたのかを解説するのは、私に与えられた役目だった。
今振り返ってみれば、1978年は色々な角度から見て、象徴的な意味を持つ重要な年だ。同年8月、中国と日本は「中日平和友好条約」を締結した。続く10月22~29日、鄧小平氏が中国の指導者として戦後初となる日本の正式訪問を実現した。表向きは「中日平和友好条約」の批准書交換セレモニーに出席するための訪問とされたが、中国が改革・開放路線に突入する前の、近代化大戦略を準備するための学習の旅でもあったといえる。
それに合わせ、10月26日から北京、上海など中国の主要7都市で、第1回日本映画週間が開催され、『追捕』『望郷』(サンダカン八番娼館 望郷)、『狐狸的故事』(キタキツネ物語)という3つの映画が上映された。これは、中日交流史に大きな足跡を残すイベントとなった。この年の年末に、長年鎖国政策を実施してきた中国は、ようやく改革・開放政策を取り入れ、改革の春を迎えたのである。
当時、経済的に改革・開放の成果を確認できるものは何ひとつなかったが、それでも国民の多くは鄧小平氏が推し進める改革・開放路線を情熱的に支持した。外国の映画を観ることができたのも、鄧氏を支持する理由の1つとなった。
ここでいう外国の映画とは、日本映画のことである。それまでの中国でも、外国の映画は上映されていた。しかし、どれもルーマニアやアルバニアといった社会主義圏で製作されたものだった。イデオロギー優先のこれらの映画に、人々は飽き飽きしていた。