非を認めることは「負け」じゃない
青年 じゃあ、面と向かって人格攻撃された場合はどうすればいいのです? ひたすら我慢するのですか?
哲人 いえ、「我慢する」という発想は、あなたがいまだ権力争いにとらわれている証拠です。相手が闘いを挑んできたら、そしてそれが権力争いだと察知したら、いち早く争いから降りる。相手のアクションに対してリアクションを返さない。われわれにできるのは、それだけです。
青年 でも、挑発に乗らないことなど、そう簡単にできますか? そもそも、どうやって怒りをコントロールしろとおっしゃるのですか?
哲人 怒りをコントロールする、とは「我慢する」ことですよね? そうではなく、怒りという感情を使わないで済む方法を学びましょう。怒りとは、しょせん目的をかなえるための手段であり、道具なのですから。
青年 ううむ、むずかしい。
哲人 まず理解していただきたいのは、怒りとはコミュニケーションの一形態であり、なおかつ怒りを使わないコミュニケーションは可能なのだ、という事実です。われわれは怒りを用いずとも意思の疎通はできるし、自分を受け入れてもらうことも可能なのです。それが経験的にわかってくれば、自然と怒りの感情も出なくなります。
青年 でも、相手が明らかな誤解に基づく言いがかりをつけてきたり、侮辱的な言葉をぶつけてきたとしても、怒ってはいけないのですか?
哲人 まだご理解されていないようですね。怒ってはいけない、ではなく「怒りという道具に頼る必要がない」のです。
怒りっぽい人は、気が短いのではなく、怒り以外の有用なコミュニケーションツールがあることを知らないのです。だからこそ、「ついカッとなって」などといった言葉が出てきてしまう。怒りを頼りにコミュニケーションしてしまう。
青年 怒り以外の有用なコミュニケーション……。
哲人 われわれには、言葉があります。言葉によってコミュニケーションをとることができます。言葉の力を、論理の言葉を信じるのです。
青年 ……たしかに、そこを信じなければこの対話も成立しません。
哲人 権力争いについて、もうひとつ。いくら自分が正しいと思えた場合であっても、それを理由に相手を非難しないようにしましょう。ここは多くの人が陥る、対人関係の罠です。
青年 なぜです?
哲人 人は、対人関係のなかで「わたしは正しいのだ」と確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れているのです。
青年 正しいと思っただけで? いやいや、なんて誇張ですか!
哲人 わたしは正しい。すなわち相手は間違っている。そう思った時点で、議論の焦点は「主張の正しさ」から「対人関係のあり方」に移ってしまいます。つまり、「わたしは正しい」という確信が「この人は間違っている」との思い込みにつながり、最終的に「だからわたしは勝たねばならない」と勝ち負けを争ってしまう。これは完全なる権力争いでしょう。
青年 ううむ。
哲人 そもそも主張の正しさは、勝ち負けとは関係ありません。あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話です。ところが、多くの人は権力争いに突入し、他者を屈服させようとする。だからこそ、「自分の誤りを認めること」を、そのまま「負けを認めること」と考えてしまうわけです。
青年 たしかに、その側面はあります。
哲人 負けたくないとの一心から自らの誤りを認めようとせず、結果的に誤った道を選んでしまう。誤りを認めること、謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りること、これらはいずれも「負け」ではありません。
優越性の追求とは、他者との競争によっておこなうものではないのです。
青年 勝ち負けにこだわっていると、正しい選択ができなくなるわけですね?
哲人 ええ。眼鏡が曇って目先の勝ち負けしか見えなくなり、道を間違えてしまう。われわれは競争や勝ち負けの眼鏡を外してこそ、自分を正し、自分を変えていくことができるのです。
(続く)