『原論』には何が書かれているのか?

 そういう文化が根ざす欧米において、論理的思考力を磨くための理想的な教本である『原論』がエリートに必須の教養であり続けるのはいわば当然だろう。

 『原論』に書かれている論理的思考の方法、それは定義と公理から始めて正しい命題を積み上げるという方法である。論理的にものごとを考えていこうとしたら、これから何も引くことはできない。またこれ以上に何かを付け加える必要もない。

 詳しく見ていこう。「定義」とは言葉の意味である。議論に使う言葉の意味が曖昧だったり、誤解があったりしたら、合理的な話し合いは期待できない。

 たとえば、「子どもの理系離れ」について議論しようとするとき、一方は「子ども」を小学生程度の児童であると捉え、他方は中高校生や大学生も含む学生全般であると捉えていたら、議論は当然噛み合わないだろう。

 「公理」は「これだけは前提として認めることにしましょう」という約束事のことを言う。電車の中において携帯電話で通話することの是非を議論する際、「電話で話す声が聞こえてくるのは不快であり迷惑である」という主張に対して、「いや、友人どうしが乗り合わせて会話している分には特に耳障りではないのだから、目の前にいる友人に話す程度の音量で通話すれば迷惑ではない」という反論はあり得るかもしれない。

 しかし、こうした議論の最中に「なぜ他人に迷惑をかけてはいけないのか?」などと言い出したら、議論が大きく後退してしまう。やはりここは「他人に迷惑をかけてはいけない」ということは前提として約束しておきたい。

 無論、少しでも疑いの余地のあることは、むやみに前提にすべきではないが、建設的にそして効率よく議論を発展させるためには、出発点になるような共通の認識は「公理」として事前に確認しておくべきである。

 「命題」は客観的に真偽(正しいか正しくないか)が判断できる事柄のことを指す。たとえば、「彼の体重は重い」は、正しいかどうかを客観的に判断することができないので命題ではない。どれくらいの体重を「重い」と形容するかは、人それぞれだからだ。一方、「彼の体重は80キログラム以上である」はその真偽を客観的に判断できる(誰が判断しても同じ結果になる)ので命題である。

 ここに次のような「証明」があるとする。

(1) X社では日本人の平均年収以上を稼ぐ社員は全員40歳以上である
(2) X社に勤めるA氏の年収は高い
(3) A氏は40歳以上である

 日本人の平均年収(国税庁の民間給与実態調査によると、平成30年は約441万円)は調べればすぐにわかる。つまり、(1)は客観的に真偽が判断できるので命題であり、今、これは正しいとしよう。しかし、だからと言って(1)と(2)から、(3)のように結論できるだろうか? おわかりの通りNOである。(2)の表現では、A氏の年収が「高い」のかどうかを客観的に判断できないからだ。

 もしかしたらA氏は20代で、A氏の年収が20代の年収の中央値(約300万円)よりは高いだけであり、国民全体の平均年収には達していないかもしれない。よって、(3)を正しい結論として導くことはできない。