「先生、印刷の仕事をやってらっしゃったのですから、印刷工がストーリーは読めないのはおわかりでしょう」と答えると、大笑いしながら「○○(悪い上司)さんが、そんなこと、言ってるんじゃよ」。途中でこれが、何十歳も年下の担当者とのコミュニケーション手段であると気づいたころから、会話が楽しくなってきました。

 担当する以前、社内の先輩から「松本清張伝説」というものを聞かされていました。先生がいかに担当編集者に厳しいか、という伝説です。

 先生は原稿を夜中に書き上げた場合、ご自宅の玄関の郵便受けに封筒をいれておき、早朝に編集者が取りにいくという取り決めになっていました。しかし先生は、2階の書斎の雨戸を少し開けて、本当に担当編集者が取りにきているか、隙間から見張っている、という伝説です。

 当時の編集者は、原稿待ちと称して、夜中まで編集部で酔っぱらっているか、バクチをやっていた時代です。結局そのまま遊んで、自分で原稿を取りにいかず、朝出勤途上の編集部の庶務の女性に取りにいってもらう輩がたくさんいました。

 そんな「怠け者」には、清張先生の目が恐ろしかったのでしょう。雨戸の隙間から見張っていたとは思いませんが、印刷所に無事に原稿が届くか、心配で見てしまう……。それが先生の性格だったのだと思います。

留守電に痴漢の喘ぎ声!?
驚きの顛末

 それにしても、先生の好奇心はものすごく、思いつくと電話で「調べてください」の連続です。早朝から夜中まで、自宅への電話の頻繁さに悲鳴をあげた妻が、当時新製品だった留守番電話を買ってきました。

 早朝、妻が私をたたき起こします。「大変よ、留守電に痴漢が……」

 確かに「ハアハア」という男の喘ぎ声が入っています。が、すぐ気付きました。清張先生が、留守番電話の対応に驚き、電話口で戸惑っている吐息の音だ、と。エネルギッシュな先生の電話は、いつも息が聞こえるほどなのです。先生にお電話して「あれは留守番電話です」と言うと、「それは何ですか?それをすぐ見たいから見せてくれ」と。

 たった1日で、わが家の留守番電話は清張家に出張することになってしまいました。