ただし、そのころの私はすでに京都を出て文芸春秋に勤めており、野中先生の話は父親から聞く程度で、お目にかかるのは随分後のことになります。政治家に会うのは、雑誌ジャーナリストとしては極めて危険です。どうしても筆が緩んでしまいかねませんし、政治家は政治家で「あの編集長とは親しい」という宣伝をしかねません。父親との関係があるだけに、なおさら近づかないようにしていました。
私が週刊文春の編集長時代は、小泉純一郎政権。野中氏は「抵抗勢力」というレッテルを貼られ、悪役として報道される存在でした。
そして、週刊誌の当然の役目である小泉政権批判をする週刊文春。そんな時期に『噂の真相』という雑誌に一行情報が掲載されます。「週刊文春の木俣編集長の父親は、野中広務元自民党幹事長の後援会の会長である」というものでした。
まったくの事実無根です。前述のように、父親は野中先生よりかなり年上、京都市は政令指定都市でしたから、府議会との関係は同列なので、年齢が上の市議が府議の後援会長になるはずがありません。
しかも野中氏は田中派から竹下派、父は京都では数少ない中曽根派に属し、後に衆院議長になる伊吹文明氏を財務省から京都一区の衆議院に呼び、後ろ楯となっていたのですから。素人でしか考えつかないような間違いですが、父親が京都の自民党市議というところから、こういう面白おかしい、いかにも謀略の臭いのする記事ができ上がります。
ネットを検索すると、まだこの記事があります。ネットは怖いです。
著者チェックしない政治家は
野中氏ただ1人だった
さて、現実には野中先生とは、先生が議員を引退されるときから本格的にお付き合いをするようになりました。父のこともあり、可愛がってくださったのだと思います。
どのメディアも欲しがっていた「議員引退の手記」を『週刊文春』でいただきました。
そのころから、時折人を招いての会合をしたり、野村克也監督と野中先生の対談本『憎まれ役』を出版したりするようになりました。