「死」とは何か。死はかならず、生きている途中にやって来る。それなのに、死について考えることは「やり残した夏休みの宿題」みたいになっている。死が、自分のなかではっきりかたちになっていない。死に対して、態度をとれない。あやふやな生き方しかできない。私たちの多くは、そんなふうにして生きている。しかし、世界の大宗教、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教などの一神教はもちろん、ヒンドゥー教、仏教、儒教、神道など、それぞれの宗教は、人間は死んだらどうなるか、についてしっかりした考え方をもっている。
現代の知の達人であり、宗教社会学の第一人者である著者が、各宗教の「死」についての考え方を、鮮やかに説明する『死の講義』が9月29日に発刊される。コロナの時代の必読書であり、佐藤優氏「よく生きるためには死を知ることが必要だ。」と絶賛されたその内容の一部を紹介します。
他人の死と自分の死
人間が死ぬのは、経験的な出来事である。そう言える、いちおう。
なぜ「いちおう」か。それは、誰かほかの人が死ぬのと、自分が死ぬのとでは、話が違うからだ。誰かほかの人(たとえば、親戚のおばさん)が死ぬ場合は、それは経験できる。おばさんが死ぬ前も、死んだあとも、それを経験する「このわたし」がいる。そもそもわたしがいなければ、どんな経験も成り立たない。
それに対して、「このわたし」が死ぬということは、特別だ。経験を成り立たせる、その土台がなくなる、ということだからだ。
「このわたし」がいなくなる。ものを見ることも、ものに触れることも、考えることもできなくなる。わたしが死ねば、わたしは存在しなくなるのだが、そのことを確認する方法がない。わたしに限らず、およそ一切の経験が成り立たなくなる。ものを見ることも、触れることも、ものを考えることもできなくなる。そんな圧倒的な出来事が、「このわたし」が死ぬ、ということである。
だんだん怖い話になってきたかもしれない。ここまではわかりましたか。
まとめてみよう。人間が死ぬ、とひと口に言っても、誰かほかの人の場合と、「このわたし」の場合とでは、まるで事情が異なる。誰かほかの人(親戚のおばさん)が死ぬ場合、それは、経験的な出来事である。「このわたし」や世界のあり方を、根本的には変化させない。
「このわたし」が死ぬ場合。そもそも「このわたし」は、そのことを経験できない。そして、そのことは、「このわたし」や世界のあり方を、根本的に変化させてしまう。すなわち、「『このわたし』が死ぬことは、経験的な出来事ではない」。
人間は、自分自身が死ぬことを、決して経験できないのである。
自分以外の人間たちが死ぬことは経験できるのに、自分、すなわち「このわたし」が、死ぬことだけは経験できない。ここに大きなねじれがある。このことを踏まえることが、死ぬということを考える第一歩だ。
「このわたし」が死ぬことは、経験できない。でもそれが、やがて確実に起こるだろうと、「このわたし」は知っている。考えてみるとこれは、不思議なことだ。そしてこのことは、「このわたし」が人間であることと、深く結びついている。
「このわたし」が死ぬことは、経験的な事実ではない。自分でそれを経験することはできないからだ。でも、それは起こる。ならばそれは、何か。「『このわたし』が死ぬことは、超経験的な事実である」。
経験できないけれども、確実に生ずる出来事。それは、「超」経験的な事実でなくてなんだろう。経験的に確かめる方法がないのに、確実に起こることになっている出来事。それは、ほんとうに起こるのか。