生まれるということ
死ぬことの反対に、「このわたし」が生まれたという出来事を考えてみる。人間は誰でも、この世界に生まれた。それまで存在しなかったのに、存在するようになった。
このことは、確かであろう。けれどもよく考えてみると、「このわたし」はこの出来事を、経験していない。気がついたら、この世界に存在していただけだ。自分の始まりを、記憶のなかにさかのぼってみても、ぼんやりとしていて、たどることができない。これほど大事な、基本的な出来事を、自分は経験しないのである。「『このわたし』が生まれることも、超経験的な事実である」。
自分が生まれる前、どんな経験もなかった。ある意味、世界は存在しなかった。同じように、自分が死んだあと、どんな経験もないだろう。そして世界は、存在しなくなる。
「このわたし」は、経験によって世界を確かめつつ、生きている。そのことは、経験的な事実である。でもその始まり(誕生)と、終わり(死)は、超経験的な事実である。ふたつの超経験的な事実に挟まれて、「このわたし」は存在している。
ここで言えること。自分の死を、まるごと経験し尽くすことはできない。死は必ず、経験できる範囲をはみ出している。この意味で、死は経験できない。経験できないので、考えるしかないものなのだ。
よって誰でも、自分の死を考える。めいめい勝手に考える。のだけれども、だいたい似たような結論になる。こんな具合だ。
i そのうち、死ぬだろう(死の可能性)
ii 死なないわけにはいかないだろう(死の必然性)
iii 死について、知り尽くすことはできないだろう(死の不可知性)
最後の「不可知性」とは、こういうことだ。
死についてはいくら考えても、わかり切らないという感覚が残る。死についていくら考えてみても、それは生きている人間のやること。死んでもいないのに、なにがわかるだろうか。そういう、埋まり切らない余白の感覚が残るのだ。
この余白の感覚を埋めようと、人びとは死について、さらに考えていくことになる。
(本原稿は『死の講義』からの抜粋です)