子どもを抱いているのが父親の辛鎮洙(シン・ジンス)、その左が重光。蔚山(ウルサン)で兄弟姉妹が揃って撮影した1枚

朝鮮戦争を契機に重光は、世界最大のガムメーカー、リグレーを目標に据え、日本市場でのロッテのさらなる成功を目指し始めた。のちに重光は、「衣錦還郷(いきんかんきょう)」(故郷に物質的還元を行うという朝鮮儒教の思想)の方針の下、日本で得た利益を韓国に投入し、日本と韓国をまたぐ巨大コンツェルン構築へと邁進する。日韓を股にかけたカリスマ経営者、重光武雄と、もう1つの顔である、韓国人、辛格浩(シン・キョクホ)を生み出した、朝鮮半島における重光の少年時代の軌跡をたどってみよう。(ダイヤモンド社出版編集部 ロッテ取材チーム)

貧困に喘ぐ“名門”の家系に生まれて

 2019年11月下旬。早朝、氷点下のソウルからKTX(韓国の新幹線)に乗って約2時間半で、韓国南東部に位置する蔚山(ウルサン)駅に着いた。そのままあと20分乗っていれば、終点の釜山駅だ。

 蔚山駅のある蔚山広域市は、韓国10大財閥のうちの2位の現代自動車と6位の現代重工業の主力工場、同じく3位のSKグループの石油コンビナートを擁する韓国の主力工業都市だ。ただし、蔚山駅は、市の中心部からクルマで15分前後かかる郊外にあり、駅から少し離れれば、何の変哲もない田園風景が広がる。その郊外をクルマで20分も走れば、なみなみと水をたたえた湖を擁する山あいの地にたどり着いた。教えられなければ、この湖の底に約80戸の集落が沈んでいることなど気付くはずもない。

 ここは、慶尚南道蔚州郡三同面芚基里〈トゥンギリ〉。日本式で言えば、面は村、里は字(あざ)で、集落を指す。この集落の630番地に「ロッテを創った男」重光武雄、韓国名、辛格浩の生まれた家があった。1969(昭和44)年に、その生まれ故郷は、前述した財閥の工場群がある蔚山特定工業地区の工業用水供給のためのダム(大巌〈デアム〉ダム)建設で、人工湖の湖底へと沈んだのである。

 ちなみに蔚山特定工業地区は、重光の“盟友”ともいえる朴正熙(パク・チョンヒ)韓国元大統領の開発独裁の下で一気に工業化を進めた国家プロジェクトでもある(『ロッテを創った男 重光武雄論』より)。

 その湖畔の向かいにある丘には重光の生家がそのまま移築されている。ダムができる当時すでに日本のロッテグループのオーナーとして成功を収めていた重光は、金に糸目を付けず、柱や垂木、土台の石にいたるまですべてを移築させたのだ。

 だが、目にした実物の生家は、拍子抜けするくらい普通の農家の建屋である。周囲は土と石で作られた土壁に囲まれ、竹を編んで作った門から庭に入ると、左側には男性の使用する舎廊がある。ここは一家の長である重光の祖父が主に使い、客を接待した建物だが、大人2人が横になろうにも狭い。 

 隣には、牛の飼料を煮る釜と飼葉桶が入った納屋がある。牛は庭で放し飼いにされ、建物の間に休める場所も設けられていた。門と向かい合う母屋は3間合わせても10畳程度の小さな建物だった。家族が暮らす2つの部屋と板の間、台所があり、下僕の小部屋もあった。ここに多いときは10人以上もが暮らしていたのだから、決して豊かではない田舎での生活ぶりがうかがえる。

 重光一族は当時の朝鮮半島の両班(ヤンバン。いわゆる特権階級)の家系で、そこそこの農地は保有していた。だが、その生活ぶりは、良く言えば清貧、悪く言えば赤貧洗うがごとしの状況だった。長男の重光には4人の弟と5人の妹がいたが、父の辛鎮洙(シン・ジンス)は貴族階級・そして知識階級たる両班として額に汗して働くことはなかったからだ。重光はのちに、自分の息子たちに、父親のことを次のように話し伝えている。

「両班の父はまったく仕事をしなくて、下僕(小作人)1人で農作業をした。計算上では集落で3番目の富豪(富農=農地保有者)だったが、下僕が耕作した分を家族で食べると少し残るぐらいだった」

 重光の弟(三男)で1930(昭和5)年生まれの春浩(チュンホ)は、自著(*1)で窮状をさらに詳細に記している。

「田植えの季節が来る頃にはほとんどの家で糧食が切れ、春窮期が迫ってきた。辛一家でも、まだ十分に熟していない麦を切り、不足した糧食に加えたりした。黒い釜で米を少しだけ混ぜた麦飯を炊くと、家族のお皿にご飯を満たす前に、もう釜のご飯がなくなった」

 日本風に言えば「武士は食わねど高楊枝」なのかもしれないが、それこそ食うにも困る没落貴族というのが重光家の実情だった。重光は貧しい子ども時代を送ったが、それで腐るようなことはなかった。ここでは、そんな重光少年の少年時代の将来の渡日、そして日本におけるロッテの成功をうかがわせる出来事を振り返ってみよう。

(*1) 辛春浩『哲学を持つ者は幸せだ』(未訳)