断っておくが、私は、東京オリンピック招致に一貫して反対を唱えていた数少ないスポーツライターだ。東京オリンピックより先にすべきことが他にある、それをせず東京にオリンピックを呼ぶべきではないと。だから、コロナ禍で反対論が高まる中、ここぞとばかり「それ見たことか」「やめちまえ」と、先頭に立って叫んでも許される(?)立場だと思う。だが、今そういう態度を取ることは、違うと思っている。

 どんな経緯・思惑があったにせよ、日本は国際社会にオリンピックの開催を約束した。現在の肥大化したオリンピックに賛否はあるし、改革は急務だ。だが、100年の長い歴史を超えて世界中が大切に育ててきた、オリンピックというスポーツの伝統、世界が共有する数少ない文化のひとつを大切に継承するのもまた日本の責務だ。それを簡単に放り出すのは、たとえコロナ禍という大義名分があるにせよ、日本は国際社会での役割を安易に放棄したことにはならないか。

 もちろん、感染拡大のリスクを覚悟してでも責務を果たすべきだと、玉砕的な精神論をかざすつもりはない。

 だが、世界に「中止」を訴え、将来にわたって賛同を得るだけの議論もまた尽くされていない。「中止」なら中止の根拠と、スポーツ界の未来に向けた展望を添えるべきではないだろうか。

「ダメだ」と強硬に主張する世論にも、勘違いや思い込みがある

「当然中止」と主張する世論にも、勘違いや思い込みがあると私は感じている。

 日本と世界のスポーツ界が、完全に動きを止めているなら、オリンピック開催はありえない暴挙だ。しかし、昨年の初夏以降、多くのスポーツが少しずつ活動や大会開催を再開している。秋以降は国際大会も活発に行われている。

 プロ野球は昨年6月に遅れて開幕し、日本シリーズまで実施した。今年も開幕に向けて動いている。Jリーグも中断したが再開しシーズンを終えた。体操は海外からトップ選手を招いて国際親善大会も実施した。このように、コロナ禍の中でどうすればスポーツが安全に実施できるかの模索が続き、一部でクラスターも発生したが、大会を遂行できる安全性は世間的に認められている。

 それなのに、「オリンピックはダメだ」と強硬に主張するのは、感情的すぎないだろうか。

 その思いの裏には、「国や企業や一部権力者の利益のために巻き添えになるのは真っ平だ」という心情もあるのだろう。だからこそ、最初にはっきりさせるべきは、「誰のため、何のためのオリンピックか」という大切な主軸だ。

 漠然と「オリンピックは感動的でいいよね」という世論で招致の支持を広め、スポーツやオリンピックの意義について国民が深い意識や価値観を共有するプロセスをほとんど取らずに来た。そのため、コロナ禍になれば「スポーツどころじゃない」と叫ぶ世論が高まってしまっている。スポーツはそんな「どうでもいい活動」なのだろうか。