これまた知り合いの話だが、ライターで、読書家であった。知識を豊潤にたたえている泉のような雰囲気なので、さぞかし読んでいるのだろうと目していたら、「ゲームを始めると読書よりゲームの方が面白くなっちゃう」と読書量が減っている様子である。

 かつては読書家だったが、スマホやゲームなどの充実によって読書量が減り読書家を名乗れなくなった人たち(筆者を含む)は、準・読書家である。たまには読書するがその量は昔には到底及ばず、読書家だった頃の自分を誇らしく思うとともに、読書しなくなった自分が残念で、またどこか恥じているようでもある。しかし「今が楽しいからいいじゃないかゲーム最高!」と開き直って、今生きているこの刹那を謳歌している。われわれは切なさを胸に抱きつつ楽しげにさまよう“明るい読書家の霊”のような存在になっている。

年齢による変化
読書がもたらすものをどれだけ求めるか

 とはいえ、年齢的なところもあるかもしれない。先に紹介した出版関係者、ライター、および筆者は皆アラフォーで、補強や吸収の必要を覚えた部分の勉強はするしスキルアップも捨ててはいないが、おおむね今まで培ってきたものをやり繰りして戦う年代に入ってきている。

 もっと若い頃は教養や新しい知識と技術に対する貪欲な渇望と、ついでに本を読む自分に対するナルシシズムがあった。読書は自分を成長させ、また武装させてくれるツールであった。読みたい本と一度は読んでおかないと恥ずかしい名作が山積みになっていて、結局全部は到底消化しきれなかったが、手近なものから一冊ずつ読み進めていったものである。山積みになっている未読本はこちらに焦りをもたらす。焦りがさらなる読書へと駆り立てる。

 これがアラフォーとなってくると、いいのか悪いのか自分のがんばりきれない部分に対して寛容になっていて、「がんばってまで読書する必要はない」と、未読本に焦らされることなく鷹揚(おうよう)としている。この姿勢が先述の、新時代によって淘汰された読書家の成れの果て、明るい読書家の霊の実態である。