それがうかがえる調査がある。1967年に日本放送協会放送世論調査所から刊行された「東京オリンピック」によれば、閉幕直後の64年11月に行った世論調査で、東京五輪が成功したか否かを質問したところ、東京ではなんと84.6%が「立派に行われた」と回答し、「大体は立派にいった」を合わせると、驚異の100%に達したのである。

 つまり、開催前はかなりシラけていた国民も、マスコミの「いろいろあったけど、やっぱり開催した方がよかったね」という世論誘導にまんまと乗っかってしまったというわけだ。

 このあまりにも極端すぎるサクセスストーリーによって、日本人の間に「オリンピックは常に正しい」という宗教のような思想が、「日本人の常識」としてピタッと定着してしまった。だから、開催前に指摘されていたネガティブな話はもちろん、開催後に噴出したさまざまな問題も、時が経てば歴史の闇に葬り去られた。

「過度な選手強化」と「五輪のナショナリズム」という指摘、
日本はスルー

 闇に葬られている問題として代表的なものが、「過度な選手強化」と「五輪のナショナリズム」への指摘だ。

 1964年の東京五輪の後、世界ではじめて「国際スポーツ科学会議」が開催された。そこでは、世界中の研究者から「成功、成功、大成功」と日本人が浮かれていた東京五輪に対して次のような批判が相次いだ。

 「“すべての人のスポーツ”というオリンピック憲章の精神が忘れられた選手強化」、「大衆から離れてゆく日本のアマ・スポーツ」、「スポーツのナショナリズム化」(読売新聞1964年10月6日)

 しかし、日本社会的には「東京五輪は大成功」なので、臭いものには蓋をするということでこのようなネガティブな側面が真剣に議論されることなく、スルーされていった。

 68年に東京五輪で銅メダルを取ったマラソンの円谷幸吉が、メキシコ五輪の前にメダル獲得のプレッシャーに押し潰されて自ら命を絶ったことからもわかるように、日本のアマチュアスポーツの世界では「過度な選手強化」「スポーツのナショナリズム化」は現在まで放置され続けている。

 メダル獲得がすべてでアスリートは「国を背負う」ので、メダルを有力視されている人がそこに届かないと、なぜか涙ながらに「すみません」と国民に謝罪をしなくてはいけない、という北朝鮮のような気持ちの悪いムードもある。

 このような「五輪ファシズム」を加速させないためにも、マスコミの「五輪ってやっぱりサイコーですね」という世論誘導に乗せられないことが重要なのだ。