さいたまブロンコス代表の退任から横浜市長選挙出馬の噂まで、その真相と真意について話しますPhoto:Yumiko Asakura

横浜DeNAベイスターズの経営改革に成功した手腕を買われ、昨年3月、崩壊寸前だったプロバスケットボールチーム「さいたまブロンコス」の立て直しを任された池田純氏。このたび、経営が安定したことから退任を発表したところ、SNS上ではさまざまな意見や憶測が飛び交う事態となった。その真相と胸の内、さらに、現在取りざたされている横浜市長選挙出馬の噂まで、全てを語る。

私の役割は0を1に変革すること

 前回、横浜未来都市経営研究所を立ち上げた話をさせていただきました。その時点ではまだ私は、さいたまブロンコスのオーナー兼代表取締役という肩書を背負っていましたが、このたび、その肩書も外すこととなりました。簡単に言えば、さいたまブロンコスの代表を退任するということです。

 組織の変革についてはさまざまなプロセスと障壁があり、それらをひとつずつクリアすることによって、結果的に全体として大きな変革へとつながっていきます。そのプロセスにどのように関わるかはそのリーダー次第です。Jリーグのチェアマンだった川淵三郎氏のように、長くトップとして同じポジションを維持し続けて、運営の安定化を目指す人もいれば、変革の根っこの部分を成し遂げ、あとは他の人に任せて、新たに自分が必要とされる場所へ向かう人もいます。

 私は完全に後者に属します。自分の役割は0を1にすることであり、企業や団体などを健全な体質に変える。それが完了したら次の行き場所を求めるやり方をしてきました。それを証明してみせたのが、横浜DeNAベイスターズの初代球団社長というポジションです。ベイスターズを変革するためには、乗り越えるべき無数の困難があり、結局5年という歳月がかかりました。

 一方、ブロンコスは莫大な債務と赤字を背負っていたため、ゼロどころかマイナスからのスタートでした。あらゆる伝手を頼って企業と株主のもとに赴き、頭を下げ、必死に債務を免除してもらったり、資金を調達することから始めました。球団からの給料は一切もらわず、神奈川から埼玉までの往復を繰り返し、1年間で6万キロを走破して車を1台つぶしてしまったほどです。

 その結果、ブロンコスの膨大な債務はすべて解消。構造改革にも成功し、企業体質も一転して自力で採算の取れる会社へと再生しました。少なくとも多少の赤字が出ても数年は運営していけるチームに生まれ変わったわけです。ベイスターズには5年費やしましたが、ブロンコスについては規模の違いで、たまたま1年で完了したということです。だから1年で見放したわけでも、放り出したわけでもありません。むしろ1年という短期間で健全化できたことを自分では誇りに思っています。

 もともと、私は外からやってきた「よそ者」であり「劇薬」です。変革においては、よそ者にはよそ者の、劇薬には劇薬の役割があります。役割が終わったのに、そこに居座り続けては、組織のためになりません。黒字経営を達成したブロンコスのこれからは、「地域で大切にされるプロスポーツチーム」になるために、地元である埼玉の人々にお任せすべきと考えました。外から来た人間は出て行き、次に改革を期待されている場所へ行く。それだけのことです。

 これまで私が全権を与えられて関与した先はすべて健全な体質に改善しました。うまくいかなかったところは、中途半端な役職で呼ばれて、変革の体裁だけのアピールに担ぎ出された団体です。そういうところでは、私の大鉈は活かせず、むしろジャマな存在となり、陰口や悪い噂も流されて最終的に放り出されました。私は全権を担ってこそ活きるタイプの人間であり、これは誇りでもあります。ブロンコスについても、目標を達成したからこそ、私は退任したのです。

 あとはさいたま市の皆さんが、地元のプロスポーツチームとして大切に、盛り上げていってください。さいたまブロンコスを離れるにあたって、私が期待することの全てです。