テレビに講演会に引っ張りだこの優待名人・桐谷広人さん。街を自転車で駆け抜ける姿でお馴染みですが、ただの面白いおじさんではないんです。なんと実は「プロ棋士」の「億り人」! そんな超スゴイ桐谷さんの株の入門書が日本株版と米国株版が2冊同時に発売され、好評発売中です。今でこそ優待株投資で「億り人」になった桐谷さんですが、心が幾度も折れそうになる紆余曲折が。そんな桐谷さんの少年期からの人生逆転エピソードを8回にわけてお届けします。
中学生時代に将棋の面白さに魅了される
――桐谷さんは元プロ棋士ということで、まずは将棋を始められたきっかけを教えていただけますか。
桐谷さん:今もプロ棋士、引退棋士なんですけどね(笑)。将棋は子どもの頃から知っていましたけども、非常に弱かったんです。中学校2年生の1学期に、クラスメートが昼休みに肩を骨折したんです、遊んでいて。
それでまあ私が管理委員だったんで接骨院までついて行けと言われて、授業を休んで2人で行ったんですね。そしたら、そこの待合室で、院長先生が患者と将棋を指してたんです。で、まあ治療に時間がかかったんで、私もやらせてくれと言って指したら、結構大人といい勝負で。それまで大人と指したことがなかったんで。で、楽しいなと思いました。
――そこからすっかり将棋にはまっていかれた?
桐谷さん:院長先生もホラふきだから、「天才の俺に対していい勝負するとはすごい、明日から指しに来い」と言われましてね。学校の帰り道に接骨院があったんで、それから1カ月くらい毎日将棋を指しに行ったんです。そうしたら、すっかり将棋が好きになった、というのがきっかけでした。
ただ、私が5局連続で勝って威張ったら、院長先生が頭にきて、「もう来るな」って言われましてね。1カ月ぐらいでそこはやめたんです(笑)。
まあ、私の父親がアマチュアの強豪だったので、それから父親とも指すようになりましてね。でも全然歯が立たないんです。
で、中学校3年生になる時の春休みに、たまたま自転車で友人と遠くに遊びに行った帰りに、当時は本州と四国を結ぶ橋がなく、竹原(広島県竹原市)と四国の今治を結ぶフェリーボートが就航していて、大きな待合室があって、そこに寄ったんです。そうしたら、所長さんが従業員と将棋を指してて、私も指さしてくれと言ったら、まあやっぱり結構いい勝負で。その竹原の町外れのフェリーボート乗り場に、毎日将棋を指しに行って、そこで本格的にというか、ま、ちょっと強くなりましたね。
――それでプロになるために広島から上京されたんですか。
桐谷さん:まあ、最初はプロになるという気はなかったんです。でもその後、地元の竹原高校に通いましてね。高校を卒業するときに、「プロ棋士になりたい」と思って東京へ出てきて、試験を受けました。で、18歳でプロの卵の4級ってことで将棋の奨励会に入会したわけです。
今、藤井二冠っていうのが、非常に強くて将棋ブームになっていますよね。彼は小学生の時から奨励会に入って、もう14歳くらいでプロの4段になっています。私が18歳、4級で入ったときにも、私と同じ歳でもうプロ棋士になっている人がいましたね。
その人みたいに、プロ棋士になるとお金をもらいながら将棋が指せるんですけども、4級で入りますともちろん1円もお金がもらえない。修業して強くならなきゃいけないんです。私は親の仕送りもなかったんで、アルバイトしながらやってまして、なかなか大変でしたね……。
<桐谷さんの人生逆転エピソードはYouTubeでも公開中>【桐谷さん激白①】昔は極貧だった!?見習い棋士時代の苦労秘話/究極の優待投資家になるまで
1949年10月15日、広島県竹原市生まれ。365日株主優待と配当で生計を立てる投資家。プロ棋士七段。バブル絶頂期の1984年に株を始め、バブル崩壊やITバブル、リーマンショックなど相場の浮き沈みを経験。資産は4億円目前。近著に『一番売れてる月刊マネー誌ザイと作った桐谷さんの株入門』『一番売れてる月刊マネー誌ザイと作った桐谷さんの米国株入門』の2冊が好評発売中。