元日経ビジネス記者でジャーナリスト歴30年の金田信一郎は2020年3月、突然ステージ3の食道癌に襲われた。紹介された東京大学医学部附属病院(東大病院)に入院し、癌手術の第一人者で病院長が主治医になったが、曖昧な治療方針に違和感を拭えず、セカンドオピニオンを求めて転院。しかし転院先でも土壇場で手術をせず放射線による治療を選択し、今では以前とほぼ同じ日常を取り戻した。金田は先頃、自らの体験を題材にしたノンフィクション『ドキュメント がん治療選択』(ダイヤモンド社)を上梓した。2021年7月20日発売のニューズウィーク日本版(7月27日号)「ドキュメント 癌からの生還」特集では、200日の闘病記を16ページのルポルタージュにして収録。金田の闘いは、思考停止に陥った日本の医療体制、そして患者にも強烈な問いを投げ掛けている。「それが本当に最適な治療なのですか」と。どうすれば、この流れに歯止めをかけられるのか。以下に続く記事で金田は、その糸口を探るべく、元主治医たちのもとを訪ねる(本記事は2021年7月20日発売のニューズウィーク日本版(7月27日号)「ドキュメント 癌からの生還」の記事を転載しました、本文は敬称略)。

東大病院から逃亡した記者が元主治医に直撃「なぜ説明してくれなかったのか」『ドキュメント がん治療選択』著者の金田信一郎(Photo:竹井俊晴)

 東大病院の建物に1年ぶりに入ったのは、2021年5月20日のことだった。

 その日は、朝から雨が降っていた。夕方のロビーに人影は少ない。椅子に座って、2020年5月まで主治医だった病院長、瀬戸泰之との再会を待つ。

 放射線治療を終えて体調は回復し、取材活動を再開した。そして、自分が治療中に突き当たった「謎」を解き明かしたいと思っていた。

「なぜ、最初に放射線治療という選択肢が示されなかったのか」。そこに、医療問題の構図を解く糸口が見えるはずだという確信があった。

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 予定時間ぴったりに広報担当者が現れ、案内されて研究棟にある瀬戸の部屋に着いた。少し廊下で待つと、ドアが開く。黒縁眼鏡に柔和な表情は、入院当時のままだった。

「先生、お久しぶりです」

 そう挨拶すると、ソファに掛けるように勧められた。

 患者と主治医。1年前の関係と違って、この日はジャーナリストとして病院長の瀬戸にインタビューする。

 まずは医師としての経歴や、彼が第一人者となったロボット手術について聞いた(インタビュー全文は後日掲載)。そして、転院に至った経緯の質問に入る。

「私の(食道癌)治療ですが、思い返すと、最初から放射線でやるという選択肢はなかったんですか」

 単刀直入に質問すると、瀬戸はこちらを正面から見据え、こう答えた。「その可能性もあります。患者さんが希望すれば、そういった選択肢もあるでしょう」

 希望すれば……。その前提条件に違和感を覚えた。果たして、癌を告知された瞬間に、医師の勧めと違う治療法を口にすることができるのだろうか。

「そうすると、患者が最初の段階で『放射線治療をやりたい』と言わないといけない、ということですか?」

「そうおっしゃる患者さんもいらっしゃいます。ただわれわれは、『この段階ではまず抗癌剤を受けていただいて、手術することをお勧めします』と説明しています」

 1時間の取材の中で、瀬戸は何度となく外科手術の優れた点を強調した。患部を取り除くことができるのは手術だけだ、と。

「例えば88歳の高齢のおじいちゃんが来るとします。そんなときでも、私たちは年齢などはいったん無視して、癌だけを見たときのわれわれの治療方針をお話ししています」

東大病院から逃亡した記者が元主治医に直撃「なぜ説明してくれなかったのか」著者である金田信一郎の主治医だった東大病院長の瀬戸泰之氏(Photo: HAJIME KIMURA FOR NEWSWEEK JAPAN)

 外科手術に絶対の自信を持っている。放射線治療の可能性があるにもかかわらず、高齢者にも6~8時間に及ぶ食道全摘の手術を勧める。なぜなら、年齢やライフスタイルなどは考慮しないからだ。患者が逆提案しない限り、放射線治療という選択肢が示されることなく、手術へと進んでいく。

「病院側から、患者に治療法の選択肢の説明があってもいいと思ったんですが」。そう投げ掛けても、瀬戸は顔色ひとつ変えない。

「金田さんの主張も理解できますし、理想的には患者さん一人一人がしっかりと説明を受けて、自分で治療法を選べるほうがいいと思います。しかし、それを支えるような制度が現在の日本にはないのです」

 現在の医療保険制度では、医師が時間を割いて相談や説明をしても、その時間には保険点数がつかない。つまり、コストと労力ばかりが積み重なって病院経営が圧迫される。

 それは、医療現場の痛切な訴えではある。しかし、患者に選択肢が示されないことは結果として、他の先進国と比べて特異な状況を生み出すことになる。
(2021年8月14日公開記事へ続く)