進行の食道ガンステージ3を生き抜いたジャーナリストの金田信一郎氏が、病院と治療法を自ら選択して生き抜いた著書『ドキュメント がん治療選択』。本書で金田氏が東大病院(東京大学医学部附属病院)から逃亡し、メディアにも一切出ない“神の手”を頼って転院した先が国立がんセンター東病院でした。東病院に転院後も、金田氏は外科手術を土壇場でやめて、放射線治療へと切り替えます。なぜそんなことができたのでしょうか。第1回は国立がんセンター東病院に診療科の壁がない理由について、病院長に聞きました。(聞き手は金田信一郎)

がん治療で決定的な差! 国立がんセンター東病院に「診療科の壁」がない理由『ドキュメントがん治療選択』著者の金田信一郎氏が東大病院から逃亡して頼った国立がんセンター東病院。大津敦病院長に、同病院の治療方針などについて聞きました。インタビューは2021年5月18日に実施(Photo:HAJIME KIMURA FOR NEWSWEEK JAPAN)

――私は東大病院から転院してきて、がんセンター東病院で外科や内科、放射線科の医師のみなさんの治療を受け、多くの知見をいただきました。この病院は、日本の中では特異な存在だと感じていまして、経営トップにお話をうかがいたいと思っていました。大津先生は、この病院の歴史的証人ですね。

大津敦病院長(以下、大津) はい、開院から勤務しています。

――多くの人は、がん研(がん研究会)とがんセンターを混同していると思います。がん研は戦前に生まれた組織ですが、がんセンターは比較的新しい組織ですね。

大津 1962年に開院しました。

――ジャーナリストの柳田邦男が『ガン回廊の朝』で、がんセンターの設立期を描きました。それまで外科中心だったがん治療を、各科の壁を取り払って患者中心の治療に変えていく、そんな医師たちの思いが描かれていました。あれは築地にあるがんセンター中央病院の話でしたが、その「分院」となるこのがんセンター東病院は30年後の1992年に設立されています。この病院も30年が経ちましたが、『ガン回廊の朝』のような思いを引き継いでいるのでしょうか。

大津 私自身は1986年から3年間、築地のがんセンター中央病院でレジデント(研修医)をやっていまして、その後、東病院が開院してからは、ずっとここにいますので、両方の病院を知っています。

 この病院ができた発端は、国立病院の統廃合でした。この地域には、国立の柏病院と松戸療養所がありました。松戸療養所は結核患者が中心でしたが、当時はがん患者に大きく変わってきていました。ですから、がんセンター出身の医師もかなり多かったんですよ。当時、(松戸療養所病院長だった故人の)阿部薫先生が、東病院の初代院長として「新しいがんセンターをつくる」ということで、厚生省(現厚生労働省)と調整したと聞いています。

――反対の声もあったんですか。

大津 「なぜ、もう一つがんセンターをつくるんだ」という議論はありました。そこで、「難治性のがんを対象にする」ということで、難治がん、特に肺がんや肝臓がんを主な対象にした「第2がんセンターをつくる」ということにしたのです。

――緩和ケア病棟や世界2番目の陽子線治療センターが話題となりました。病棟も最新の建築でした。

大津 がん患者が増えてきて、がんが国民病になるのは目に見えていました。それで、もう一つがんセンターをつくるという話が盛り上がってきたのだと思います。

――当時、築地にも肺がんや肝臓がんの診療科もあった。

大津 そうですね。

――では、議論が沸きますね。

大津 ここの3分の1は築地(がんセンター中央病院)出身で、あとの3分の1は松戸療養所、3分の1は柏病院の出身者でした。私は田舎の病院に戻っていましたが、消化器がんの化学療法をやっていたから、「柏に第2のがんセンターができるから来い」と築地時代の元上司に言われて赴任しました。最初は役割分担として、「手術ができる患者さんは築地に紹介して、手術ができない進行したがん患者さんを柏で診る」と言われていました。

 開院前の建築中の病院を見に来て、びっくりしました。30年前、この辺りは藪だらけです。当時、勤務していた(福島県)いわき市よりも田舎で、「こんなところに来るのか」と思いました。

――1992年から建物は変わってないわけですよね。

大津 そうですね。隣の東大も柏の葉公園も、まだできていませんでした。ところが、東病院がオープンすると、患者が押し寄せてきたのです。築地にはなかった緩和ケア病棟がありましたし、陽子線治療も国内で最初に実施していました。この2つが目玉で、がん患者さんが押し寄せてきました。そうなると、肺がんと肝臓がんだけでなく、胃がんや大腸がんの患者さんも多いから、だんだんと東病院でも手術をするようになっていきました。でも、メーンは肺と消化器、頭頸部のがんなどでした。

 その後、希少がんにも取り組んできましたが、いつも国からは、「がんセンターは2つ必要なのか」と問われました。

――すみ分けですね。

大津 開院して10年ぐらいしたところで、国から「機能分担を明確に」と言われて、当時の幹部の先生方の協議で、築地は「がん対策情報センター」を置いて、柏の方は「臨床開発センター」を置くことになったと聞いています。築地は政策医療、柏は新しい開発を中心に据える方向性になりました。

――新しいことを始めるのが得意だった。

大津 この病院は開院した当時、医師の平均年齢が33歳でした。ちょうど私もそのくらいの年齢でした。今から考えれば、レジデントクラスの年齢です。病院も小さく、診療科横断的な良い雰囲気はずっと続いてますね。

 私は内科ですけど、外科であれ、放射線科であれ、簡単に話ができます。金田さんが受けられた放射線治療も、内科で説明をして、外科でも説明を聞いて、患者さんにどちらがいいか決めてもらう。それを最初の頃に始めたのが、この病院です。協力し合ってきました。

――私のケースでは、最初は外科手術をする予定だったのですが、内科の先生が間に入って「放射線もありですよ」という話になって、そのリスクも聞いて決めました。で、思ったんですけど、患者と内科、外科、放射線科が同じ場に一緒に集まって話すことはできないんですね。

大津 時間が合えばできると思いますが、単純に、医者たちが一緒に集まる時間をつくるのが大変だという課題があると思います。

――時間が合えば、そういうこともあるんですか。

大津 それはできると思いますよ。

――ほかの病院では、放射線治療とか外科手術とか、患者が選びにくいものなんですか。

大津 だいたい、行ったところ(治療科)で決まりますよね。患者さんが外科に行けば、その科で全部見ることになります。抗がん剤も含めて。昔は抗がん剤専門の内科医は少なく、外科の先生方が中心的だったので、そんな感じでした。

――東大病院がそうでした。医師チーム全員が外科医でしたし、抗がん剤も外科の先生たちにやってもらいました。東病院では、内科が抗がん剤治療を担当してくれました。外科が主導という感じではないですね。

大津 うちの外科医は、外科医らしくないのかもしれません(笑)。腕の良い外科医が揃っているけれど、伝統的に近寄り難い感じはありません。内視鏡治療などで、まれに消化管が穿孔したりすることがありますが、そうすると外科の先生方が嫌な顔もせずに手術をしてくれます。

 ゲノム関係は内科がリードしてプロジェクトを進めていますが、周術期の薬物療法などは外科が中心となるようにバックアップしている。なかなかできないことです。それで、内科がいろいろな実績を上げることにもつながっている。ESD(内視鏡切除)を最初に実践したのも、この病院です。
(2021年8月22日公開記事に続く)