三菱グループはしばしば「最後の財閥」「最後の企業集団」と言われる。実は三菱グループの強さの源泉は、戦前の三菱財閥にさかのぼることができる。三菱財閥の創業から現在の三菱グループまでの歴史を明らかにし、個々のグループ企業にも目配りしながら、同グループの特徴や社風にも触れていきたい。
※本稿は、菊地浩之著『最強組織の実像に迫る 三菱グループの研究』(洋泉社)の一部を再編集したものです。登場する企業名などは2017年5月発行当時のものです。
なぜ一代で日本有数の財閥ができたのか
戦前の有力財閥で、幅広い金融・産業分野に事業配置したものを俗に「総合財閥」「三大財閥」といい、具体的には三井、三菱、住友財閥を指す。
三井、住友財閥が江戸時代以来の富商を淵源(えんげん)とするのに対し、三菱財閥は創業者・岩崎弥太郎(1835〜1885)が一代で築き上げた財閥で、三井財閥に次ぐ二番目の規模を誇っていた。
ではなぜ、三菱の岩崎弥太郎だけが一代で、江戸時代以来の富商である三井や住友と対抗し得る財閥を築くことができたのか。
先行研究によれば、財閥の主要な資本蓄積の源泉は、政商活動と鉱山経営にあったといわれている。それに最も成功したのが三菱だったということだろう。
政商活動の面からいうと、三菱は明治新政府による国内の海運業者育成に指名されて手厚い保護を受け、政商として急成長を果たした。政商になりえた隠れた理由に、弥太郎が武士身分の出身だったことがある。より具体的にいえば、弥太郎には武士出身からくる教養と国士的な気概があり、利己的な商人とは一線を画した人物だったことが明治新政府の高官から信任を勝ちえたのだ。
鉱山経営の面からいうと、三菱は明治初期から鉱山経営に進出しているが、そこで大きな役割を果たしたのがビジネスパートナーの川田小一郎(1836~1896)だった。川田のような有能な右腕がいたことが、三菱が急成長した理由の一つといえるだろう。そして、これも弥太郎が武士身分の出身であったことが関係する。