浅野総一郎写真:栃波正倉

“セメント王”などと称される浅野財閥総帥・浅野総一郎(1848年4月13日~1930年11月9日)による「明治から昭和へ 80年の回顧」という全10回の連載記事の第1回である。

 浅野は越中国射水郡藪田村(現富山県氷見市)から1871年に上京。東京・御茶の水の冷たい名水に砂糖を入れた「水売り」などを経て、1873年に「横浜市営瓦斯局」が産業廃棄物として処分していたコークスに目を付け、セメント製造の燃料として官営深川セメント製造所に納めることで富を得た。

 その後、当時第一国立銀行の頭取などをしていた渋沢栄一と出会い、渋沢の口添えによって1884年に官営深川セメント製造所の払い下げを受け、これが浅野セメント(現太平洋セメント)の基礎となった。その後は、東京から横浜にかけての京浜工業地帯の開発に携わったり、浅野造船所(現JFEエンジニアリング、現ユニバーサル造船)など多数の会社を設立し、一代で浅野財閥を築き上げた。浅野綜合中学校(現私立浅野中学校)の創設者でもある。

 このインタビューの後段には、三菱財閥の岩崎弥太郎との“けんか”の話が出てくる。当時、三菱の海運事業である郵便汽船三菱会社は、値下げ攻勢によって勢力を広げて独占的な地位を得た後に運賃を上げて巨額の利益を上げていた。 それに対抗して、渋沢栄一や三井財閥系の益田孝、浅野総一郎らが反三菱財閥勢力の海運会社、共同運輸会社を設立した話である。

 両社は値引き合戦を繰り広げ、さらに接触事故も辞さない速度合戦にも発展し、消耗戦の様相を呈する。浅野は「そりゃ面白かった」と振り返っているが、まさに火の出るような、実際に煙突から真っ赤な火を出しながらのデッドヒートを演じたのである。

 1885年に岩崎弥太郎が胃がんで死去(享年50)したのを機に、政府の仲介によってライバル同士の合併が提案され、日本郵船会社(現日本郵船)が発足した。

 それにしても、渋沢栄一との出会いのシーンなども合わせて、伝説的な人物が続々と登場する。この回顧録が載った1929年時点でも、こうした話は、すでに“歴史の1ページ”という扱いだったのだろう。全10回連載の残り9回分も、いずれかの機会に紹介したい。(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

帽子を被れば色男
とても82歳には見えない?

1929年11月21日号誌面1929年11月21日号より

 私は今82だが、そんなに年寄りだと思ってはいけない。どうしても60前後のやつと見えるでしょう。これでシャッポを被るとなかなか若いよ……(帽子を取ってきて被る)……これでご覧なさい、幾つに見えます。この間も西洋人が来て、どうしても50から60の間だと言いました。ウフ。

 これで朝もやはり5時に起きる。うそと思うなら一遍来てご覧なさい。5時には目が覚めるが、その前どうも小便が出て仕方がないから3度も起きる、それで看護婦を置くが続かない。6、7人も来たが、辛抱するやつがない。今いるのは強情っ張りで、辛抱して勤めてみると言っているが、まあ2度は起こされる。

 夜は8時か9時には家へ帰る。そうして風呂に入って寝るんだが、うまく寝ても12時には目が覚める、咳が出る。どうもぜんそくみたいな痰持ちだから……そうすると看護婦を起こしてリンゴをむいてもらったりする。そうしてどうやら1時半から2時ごろまで寝る。また目が覚める。また咳が出る。小便に行く。2時か2時半やっとこさ寝付いて、まず3時半か4時まではどうやら寝るが、それからまた目が覚める。今度は起こすのも気の毒だから、なるたけ我慢して、床の間の時計を見ている。5時を打つのを待って看護婦を起こす。