昭和恐慌の前年に
新会社を設立
昭和恐慌の前年の1929年、二代忠兵衛は縮めていた身体を伸ばす大きな勝負に出た。持ち金を集めて富山県に呉羽紡績という紡績会社を設立したのである。
呉羽紡績は成長し、後に伊藤忠、丸紅、呉羽紡績3社は二代忠兵衛の会社の「御三家」と呼ばれるまでになった。
なぜ、二代忠兵衛が関西地区ではなく、富山に紡績工場を興したのか。それは後に北陸電力の社長を務める富山の経済人、山田昌作と交流があったからだ。
山田のことを書いた伝記にはこんな文章が載っている。
「北陸地方の工業は多岐にわたるものであるが、紡績事業もけっして軽視すべきではない。現在、鐘紡、富山紡、呉羽紡、日清紡、倉敷レーヨン、人絹パルプ等の諸工場が集っているが、先鞭をつけてこの土地に紡績工業の種をまいた人は呉羽紡の伊藤忠兵衛である。
大正の末に、彼が富山の経営に乗り出したことは、すでに書いたとおりである、そのときは富山紡が経営不振におちいって、その再建のために彼が運営に当ったのである。
(略)
昭和三、四年のころ、わが国の経済界はまことにひどい状態であった。不景気のどん底にあって、あらゆる産業が不振に喘いでいたのである。
そのころ、豪胆な伊藤は新しい紡績事業を計画した。呉羽紡の設立がそれである。ちょっとふつうの人間には考えられないことである。
『こんなときこそ拡張のチャンスだ、土地も、建築資材も、人件費も、原料もすべて安く手に入る』
そう考えた彼は、さっそく昌作に相談したのだ。」(『山田昌作伝』河野幸之助 日本時報社出版局)