重要な政治決定の裏側には、スパイが絡んでいる。かつての国際的な危機や紛争、国家元首の動きもすべてお見通しだった。それは単なる偶然ではない。政治指導者の力でもない。さまざまな情報を分析したスパイたちのおかげだった。イギリスの“スパイの親玉”だったともいえる人物が、『イギリス諜報機関の元スパイが教える 最強の知的武装術 ――残酷な時代を乗り切る10のレッスン』を著した。スパイがどのように情報を収集し、分析し、活用しているのか? そのテクニックをかつての実例を深堀りしながら「10のレッスン」として解説している。マネジメントを含めた大所高所の視点を持ち合わせている点も魅力だ。本書から、その一部を特別公開する。
経験にもとづく偏見や先入観に注意
経験を積んだ情報分析官は、何に注意を向け、何を無視するかの選択が、そのときの心理状態によって変わることを理解している。
心理状態は、任務を課せられた条件に加え、問題を無意識下でどのようにとらえているかに影響される。
情報分析官には、それぞれ過去の仕事の記憶からくる偏見や先入観があるからだ。CIA職員のための入門書には、こう記されている。
「一般的な世界であっても、より特異的な領域であっても、仮説や予想は、経験にもとづく偏見や先入観によって組み立てられる。情報分析官が何を受け入れるかも大きな影響を受ける。つまり、情報分析官が無意識に用いるモデルと合致した情報は、合致しない情報よりもとらえやすく、記憶に残りやすい」
したがって、自分が探していたものを情報源に見せられたと思うときは、とくに注意したほうがいい。情報分析官は、通信の傍受や解読、盗聴器が入手した情報を信頼する。傍受や盗聴された人たちは通信や会話の機密が守られていないことを知らないため、真実を話していると思えるからだ。
しかし、そこに問題がある。会話者の一方が他方を欺こうとしているかもしれないし、両者が別の第三者を欺こうと計画しているかもしれない。
1944年6月、第2次世界大戦におけるノルマンディー上陸作戦では、上陸を実行する前に精巧な捏造会話が用意され、アメリカ陸軍部隊のすべてが英仏海峡のドーバー近くに駐留しているかのような印象をつくり上げた。
この会話は、ドイツ諜報部を欺く情報を流したすぐれた二重スパイ作戦であるとともに、ノルマンディー上陸のために仕かけた大規模なフォーティテュード(戦略的欺瞞)作戦の土台となった。
主な目的はドイツ軍最高司令部に、ノルマンディー上陸はその後のフランス北部パ・ド・カレーへの大規模な侵略の第1段階だと思い込ませることだった。この諜報部主導の工作により、ドイツ軍最高司令部が戦車などの機甲師団を動かさなかったおかげで、ノルマンディー上陸が大失敗に終わらずにすんだと言えるだろう。
ときに噂とも言えるような根拠のない話が飛び交い、メディアの経済欄でとり上げられ、市場の動きを牽引することもある。大きな投資会社の優秀なアナリストは、個人としては市場の噂話に騙されることはないだろう。だが、一般の投資家が噂話に騙され、それによって市場が動くことを知っているので、結果としてあたかも噂が正しいかのような投資判断をしなければならないこともある。
イギリスの経済学者で「投資は勝ち馬に乗るゲーム」と説明したジョン・メイナード・ケインズが、母校の英ケンブリッジ大学キングス・カレッジに巨額の富をもたらしたのは、この考え方によるものだ。
いまでも投資会社のマーケティング資料には、「投資の成功は他者の予想を予想することだ」というケインズの言葉がよく引用されている。ケインズは著書『雇用、利子および貨幣の一般理論』で、この過程を以下のように美人投票にたとえて説明している。
「これは投票者の最良の判断において最も美しい人を選ぶのではなく、平均的な意見によって最も美しいとされる人を選ぶのでもない。第3の次元に達して、平均的な意見が平均的な意見と考えるであろうものを精いっぱい予測する。4次元、5次元、それ以上の高次元でそういったことを実践している人もいるだろう」
英ケンブリッジ大学を卒業後、国内外の情報収集・暗号解読を担う諜報機関であるイギリスの政府通信本部(GCHQ)に勤務、国防省を経て、GCHQ長官、内務省事務次官を務める。内閣府では事務次官や首相に助言する初代内閣安全保障・情報調整官(日本の内閣危機管理監に相当)、情報機関を監督する合同情報委員会(JIC)の委員・議長の要職を歴任したスパイマスター。『イギリス諜報機関の元スパイが教える 最強の知的武装術 ――残酷な時代を乗り切る10のレッスン』を刊行。