グローバルにCEO・CMO輩出企業として名を馳せるP&G。その経営中枢の一角を担うアジアのヘッドクォーターに11年勤務したマーケターの大倉佳晃さんが、メジャーリーガー級のリーダーやマーケターと数多く触れ合って辿り着いた1つの結論は、「優秀なビジネスリーダーは、マーケティングとファイナンスの両軸での思考ができる」ということだった。そのリーダーたちも重要視する経営指標「TSR(株主総利回り)」とは何か、また、TSRを向上させる施策とは何かなどについて、解説してもらう。

マーケティングとは、

「消費者・ユーザーに選ばれる確率を上げ、使い続けてもらえるブランド(商品・サービス)を育て、継続的に売上・利益を伸ばす仕組みづくり」

である、と前回述べました。

そして、ブランドの売上と利益を継続的に伸ばすためには、継続的にブランドに投資をする必要があり、それゆえ、ファイナンス思考でマーケティングをすることが大切です。

今回からは、一歩さらに踏み込んでいきます。

これ、マーケティングと関係あるの? と最初は思うかもしれませんが、今から述べるファイナンスの概略が理解できれば、企業・ブランド価値を高めるマーケティングを実施できる確率がぐんと上がるはずです。

P&Gで重要視されている「TSR」とは?

元P&Gトップマーケターが語る「グローバルエクセレントカンパニーで重要視されるTSRとは何か」大倉佳晃(おおくら・よしあき)
OKURA BOOTCAMP代表 兼 ブランド・ビルダー
元P&G APAC Focus Market ヘアケア シニアディレクター・CMO。2008年P&Gジャパン入社。入社3年目からアジアヘッドクォーターのシンガポールに着任、グローバルSK-II、日本・韓国ファブリーズ、日本ヘアケアで業績V字回復や急成長を牽引。パンテーンでは、ブランドパーパスキャンペーン「#HairWeGo」を開発・成功させ、カンヌライオンズ含む世界中のブランド・広告賞も多数受賞。現在は、外資・内資、大企業・スタートアップまで幅広い会社の顧問・取締役・エンジェル投資をしながら、自社事業の準備中。

昨今、SDGs(持続可能な開発目標)、ESG(環境、社会、ガバナンス対応)、ブランド・パーパス、ナラティブといった言葉がバズワードのようになっています。それらは、果たして企業やブランドにつながるのでしょうか。そして、このような時代に企業やブランドにとって大切なことは何でしょうか。私は、きちんと規定されたパーパスによって、ビジネスの目標数値達成とソーシャルグッド(社会に良いインパクトを与えること)を両立できることが重要だ、と考えています。

大前提として、資本主義社会のルールの中でビジネスをする以上、企業・ブランドに対する市場からの評価と価値を最大化させ、会社に投資をしてくれている人たちに、リターンを返すことからは逃れられません。上場会社であれば尚更ですし、スタートアップでも、投資家がいる以上は同じです。ビジネスに貢献しないソーシャルグッドは、持続性がなく継続できない可能性があります。

では、リターンを返すとはどういうことでしょうか?

ここで、「TSR」(株主総利回り)という考え方を紹介します。

アメリカでは、上場企業の経営陣の給料はこの「TSR」の数字で決まることも多いと聞きます。それほどに重要な経営指標です。ちなみに、P&G時代の私のボーナスもTSRをベースにした数字で決められていました。また、投資家目線からしても、このTSRは、上場企業投資においては、最重要投資指標の1つとして捉えられているようです。

「TSR」とは「Total Shareholder Returns」の略で、文字通りどれくらい株主にリターンを出せたかです。計算は極めて簡単で、株価がどれくらい上がったか(キャピタルゲイン)と、配当がどれほど出せたか(インカムゲイン)の合計が、投資金額をどれくらい上回ったかです。

計算式で表すと、次のようになります。

TSR(%)=(1株あたりの配当額+株価の上昇額)÷当初株価×100

例を出しましょう。

執筆時点での任天堂の株価が、6万3290円です。

その約1年前の株価は、4万8880円です。年間の配当額は、2220円です。

これらを式に当てはめると、

{2220+(63290-48800)}÷48800×100=34.2%

となります。

東証一部上場企業の平均的TSRである9%前後と比べて、任天堂株は投資家に対して良いリターンを出していると言えます(正確には、同業界の平均TSRを超えることが求められます)。

ここで一つの疑問が生まれると思います。いわゆる投資指標として、ほかにもEPS(1株当たり利益)、PER(株価収益率)、PSR(株価売上倍率)、ROE(自己資本利益率)など様々ある中で、なぜTSRが最も大切であるか、です(そして、最も大切な投資指標であるならば、最重要の経営指標の一つであることも間違いないと思います)。

投資家の究極的な目的の一つは、投資リターンを上げることです。投資リターンとは、上述した通り、キャピタルゲインとインカムゲインになるので、その総和のTSRが最重要指標、最上位概念になるわけです。EPSやPERといったその他の指標は、TSRを向上させるための手段と考えればよいでしょう。

サッカーに例えましょう。プロサッカーであれば、勝利こそが目的であり、ボール保持率、スプリント回数、戦術といったものは、それ自体が目的ではありません。守備的な戦い方をしようが、ボール保持率が低かろうが、勝利をすればよいでしょう。逆にボール保持率が高くとも、試合で勝てないならば評価は低くなると思います。

ただし、一般的には、ボール保持率やスプリント回数といったものが、勝利へと繋がりやすい指標であることはご理解いただけると思います。投資家的には、勝利=TSRであり、ボール保持率、スプリント回数、戦術等=ROE、PER、その他指標ということになります。

具体的にTSRを向上させる方策とは?

TSRの重要度は、理解していただけたでしょうか。

それでは、TSRを向上させるためにはどうしたらよいでしょうか。TSRはキャピタルゲインとインカムゲインで構成されると説明をしました。キャピタルゲインとインカムゲインを伸ばすには、下記が必要です。

◆キャピタルゲイン
 - 利益成長(事業戦略)
 - マルチプルを上げる(投資家戦略)
◆インカムゲイン
 - フリーキャッシュフローを増やす(財務戦略)→株主還元(配当、自社株買い)へ

以下、それぞれの項目について説明を加えていきます。

まず、キャピタルゲインにつながる「利益成長」についてです。

そもそも、株価はどうすれば上がるのでしょうか?

「株価」=「EPS(1株当たりの利益)」×「PER(1株当たり純利益の何倍の値段か)」

という、株価を決定する計算式を踏まえると、「利益」をいかに高めることができるかが重要です。いわゆる、事業そのものが最も貢献できる部分です。そもそも、事業として継続的に利益を増やし続けることができれば、株価が上昇しやすいことは容易に想像できますよね。長期的なTSR向上のドライバーとして最も大切であると言われています。

次に、「マルチプルを上げる」とはどういうことでしょうか。

マルチプルとは、一般的に、企業価値がEBITDAの何倍かを指し示す指標です。企業価値が高いと投資家が判断すれば、株価も上昇しキャピタルゲインが向上、ひいては、TSR向上につながるわけです。

企業の潜在的な成長力、リスク、利益の質、競合優位の継続可能性などの諸要因を、投資家が総合的に評価してマルチプルは決まります。業界によってドライバーは異なりますが、粗利率やEBITDAマージンは業界問わず重要指標であることが多いです。粗利率やEBITDAマージンは、1つ目に述べた利益成長とも密接に関係しています。そもそも、事業が伸びていないとマルチプルが上がらないのは当然でしょう。

投資家に対し、こうした点を含め、投資対象としての魅力を伝えることをエクイティ・ストーリーと呼びます。エクイティ・ストーリーに対して、多くの投資家が共感し納得することで、投資家からの評価が高まり、マルチプルも上昇する可能性があります。さらに近年は、SDGsという観点を加味して、成長性や利益の質、リスク、競合優位を考える必要性があり、投資家の共感を呼ぶエクイティ・ストーリー醸成はさらに難易度が上がっていると言えるでしょう。

さらに、インカムゲインにつながる「フリーキャッシュフローを増やす」とはどういうことでしょうか。

「フリーキャッシュフロー =営業キャッシュフロー ー 投資キャッシュフロー」です。インカムゲインである配当や、また、株価上昇要因になりうる自社株買いを促進するためには、この「フリーキャッシュフロー」をいかに多く生み出せるかが大事です。当然ですが、自由に使えるキャッシュが手元にないと、配当などで株主還元もできません。また、フリーキャッシュフローが増えれば、その分手元にキャッシュが残るので、買収といったその他のマルチプル向上、ひいては、TSR向上のための施策への投資も可能となります。

会社のCEOやCFOであれば、明確なTSR目標を定め、事業戦略、投資家戦略、財務戦略を考えていくことが重要です。この3つは複雑に絡み合っていて、しばしばトレードオフの関係にもあります。

例えば、競合他社と比べて配当が低いために、投資家からのマルチプル評価が競合より低い場合を考えてみてください。キャッシュを事業成長のために投資をするのではなく、投資家に配当として還元することで、インカムゲインが増え、かつ、投資家の期待に応えることでマルチプルが改善されることによりキャピタルゲインも増え、結果的にTSRが向上するようなケースです。

また、より重要なのは、会社の経営層が、TSRの目標値を各事業部へと落とし込むことでしょう。各事業部を一つの会社として捉えれば、事業部ごとのTSRをある程度算出できるはずです。そして、そのTSR目標値のドライバーをオペレーションレベルでKPI化することができれば、現場レベルでも、TSRという共通目標のために動くことができるようになります。TSRのドライバーは次回以降解説していきます。

今回は、かなりファイナンス寄りの話になってしまいました。私はマーケティングのプロではありますが、ファイナンスのプロではないので、言葉足らずな説明があればご容赦ください。次回からは、いよいよ、マーケティングがTSR向上のために果たせる役割について述べます。