「電波少年の前は全然ダメ。『他局のヒット番組をパクれ』と言われ、TBSの『風雲!たけし城』をまねた番組を作りましたが、ゴールデンタイムの視聴率が1.4%と低迷。もう1本パクリ番組を作るも失敗し、2年ほど制作現場から外れることになりました」

「それが92年5月、『何でもいいから企画書を持って来い!』と呼び戻されました。改編期ではなく中途半端な時期でしたが、前身番組が急きょ休止になり、代わりが必要だったのです。そこで『もうパクリはしたくない』と7月に始めたのが電波少年でした」

 土屋Pは当時をこう振り返る。

「予定調和」ではない突撃取材が
視聴者の心を揺さぶった

 ピンチヒッター的に番組作りを頼まれ、「しょうがないから適当にやっとけ!」と裁量権も得た土屋Pは、とにかくテレビ業界で前例がなく、常識を打ち破るような手法を模索する。その末に行き着いたのが、前述のアポなし突撃だった。

 テレビの撮影手法といえば、取材先の了承を得た上で、出演者の顔が映るように撮るのが当たり前。土屋Pはそれを逆手に取り、芸人たちがゲリラ的な取材に奔走する様子を、たとえ後頭部しか映っていない場合でもカメラに収め、視聴者の好奇心をくすぐった。

 番組は時に「こんなものテレビじゃない」といった批判にさらされたものの、当時の経営陣はこうした手法を “黙認”。後世に語り継がれる企画が続々と生まれたわけだが、土屋Pにとって特に思い出深いのは、タレントの松本明子さんが参加した初期のロケだという。
 
「松本が住友金属(工業、現日本製鉄)所属の長身バスケットボール選手に会いに行くロケをやったときのこと。『机は普通の人と同じなのか』などの企画を考えていたら、前日になって住金の広報から取材NGの連絡が来てしまいました」

「それでも会社の前に張り込んでいると、たまたま選手本人が通りかかり、松本が頼むと『高い高い』をやってくれた。彼がビルに入る様子を撮り、カメラを戻すと、松本は泣いていました。『選手に会えるかも分からず、初めて自分がメインの番組でロケが成功するかも分からなかった。ホッとした、良かった』って泣いていたんです」

 この際、もし土屋Pの上司が「ちゃんと取材許可は得たのか?」「撮影の段取りは決まっているのか?」と細かく報連相を求め、「そんなロケ、やっていいと思っているのか」と切り捨てていれば、松本さんが涙するシーンは撮れなかっただろう。

「これ、アポイント取ってたら泣いてないんだな、こっちだったな」と感じた土屋Pの中で、さまざまな偶然や経験が重なったことで、「アポなし」という電波少年のスタイルが確立したのだ。

 まさしく、報連相からイノベーションは生まれないのである。

 そんな土屋Pも、今では60代も半ばに差し掛かり、若手を育てる立場へと変わった。