元ゴールドマン・サックス金利トレーダーの田内学氏が書いた『お金のむこうに人がいる』は、「お金と人の関係」から経済全体を見直す本です。本記事では、もっとずっと身近な話として、「お金に支配されてしまう人」の特徴を、短い寓話をベースに明らかにします。(構成:編集部/今野良介)

大金持ちと悪魔の取引

ある晩、N氏の住む豪邸の玄関扉を、誰かがノックした。

N氏が扉を開けると、悪魔のような風貌の男が立っていた。

いつもの物乞いの類だろうと思い、N氏は一枚の10ポンド札を黙って差し出した。

悪魔のような男は10ポンド札を一瞥(いちべつ)すると、

「そんなものが欲しいわけじゃねえ。お前と取引がしたい。俺は悪魔だ」

と言った。

悪魔の取引の話を本で読んだことはあったが、ついにうちにも来たかと思い、N氏は話を聞くことにした。

「取引といっても、お前には悪い話じゃない。このカードを使ってくれればいいだけだ」

と言って、悪魔はカバンの中からトランプほどのカードの束を取り出した。

「これは、人に命令ができるカードだ。このカードを一枚使うと、相手はお前の言うことを一つ聞く」

「面白そうだな」とN氏は言いながら、使い道を考えた。

(―まずは、国王に玉座を明け渡してもらうか。その次は、どうしようか―)

悪魔がまた口を開いた。

「ただし、このカードを使うときは、相手に渡さないといけない。そいつがカードの新しい所有者となり、そのカードを使えるようになる」

「そういうことか。お前みたいな悪い奴にこのカードを渡すと、悪いことに使われるわけだな」

クックック、と笑った後で、悪魔は付け加えた。

「ただ、みんなが命令に従うわけじゃない。カードが欲しい奴はお前の命令に従うが、要らない奴は命令には従わない。カード一枚で命令に従わなくても、二枚や三枚渡せば命令に従うということもある」

「そうか、人間がそのカードに支配されていくのをお前は見たいわけだな」

また、悪魔はクックックと笑った。

N氏はしばらく考えてから断ることにした。

「そのカードなら、すでに持っている。帰ってくれ」

と言って10ポンド札を3枚に増やした。

悪魔はそれを受け取って満足そうに帰って行った。

「お金に支配される人」と「お金をうまく使う人」決定的な“視点の違い”Photo: Adobe Stock

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田内学です。お話はここまでです。

実際に人類の誰かが悪魔と取引をして紙幣が普及したのかどうかは私にはわからないので、貨幣論の専門家の先生方にお任せします。

しかし、悪魔が広めようとしたカードと同じ効果をもつ「紙幣」というものを、私たちが使っているのは事実です。

コロナ禍の日本では、この悪魔のカード、もとい一万円札が10枚ずつ配られました。一万円札を印刷するコストは、たかだか24円。たった24円で一万円札を作ることができるなら、どんどん印刷してばら撒いてくれればいいのにと思いたくなります。お金を印刷していいなら、税金も払わなくてよさそうですし。

しかし、コロナ禍のような特殊な状況を除き、紙幣が配られることはありません。

その理由は、「紙幣は、保有するときではなく使うときに効力を発揮するから」です。

悪魔のカードの価値は「誰かが命令に従うこと」でした。現実の社会で使われている紙幣の価値は「誰かに働いてもらえること」にあります。

紙幣を使い、「誰かに働いてもらう」ことで、モノやサービスを手に入れることができます。多くの人にとってお金をもらうことが嬉しいのは、それ自体に価値を感じるからではなく、それを使っている将来の姿を想像するからです。札束を敷き詰めたベッドに寝ることや札束を積み上げた写真をSNSにアップすることに幸せを感じる人もいるかもしれませんが、それは特殊な例です。

お金が効力を発揮するのは、保有するときではなく、使う時。そして、お金を使うときには必ず働いている人が存在しています。だから、政府がお金をたくさん配ってみんなが働く意欲を無くしてしまったら、元も子もないのです。AIやロボティクスが発達すれば、誰も働かなくても生活できるようになるかもしれませんが、その時には「お金」というシステムも無くなっているでしょう。

私が書いた『お金のむこうに人がいる』という本では、お金のむこう側にいる人の存在に注目して、お金や経済をゼロから考え直しました。これは道徳的な話ではなく、お金や経済の本質的な話です。お金というものを「誰かに働いてもらえるチケット」ととらえれば、身の回りの経済や私たちが直面している社会問題の見え方もガラッと変わります。

たとえば老後の年金問題。お金を積み立てておけば解決しそうな気がしますが、年金問題の本質は「将来働いてくれる人が減ること」にあります。「誰かに働いてもらえるチケット」をどんなに増やしても、働いてくれる人が減り続ければ解決しないのです。

また、悪魔のチケットの話では、チケットが「悪い人」に流れれば悪用されることが容易に想像がつきます。

これは現実世界でも同じことです。だから、「お金がどこに流れるか」を考えることは重要です。

いわゆる「ESG投資」(「環境(Environment)」「社会(Social)」「ガバナンス(Governance)」を考慮した投資活動)という言葉がよく聞かれるようになりましたが、本質的には難しい話ではありません。どこかの会社にお金が流れるなら、社会のための活動をしている会社のほうがよさそうです。

日々のお買い物にしたって、「地域経済を考えたら、地元の商品を買った方が良いだろう」という発想もできるでしょう。

お金の話というと、どうやってお金を節約するか、どうやってお金を増やすかという話になりがちです。でも、そうやってお金に支配されてしまっては、悪魔の思うツボなのです。

お金そのものが目的にならずに、道具としてうまく使いこなすには、お金とは何かを知って、お金との向き合い方を考えることが重要です。

『お金のむこうに人がいる』ことを意識するだけで、社会の見え方、これからの生き方、お金との付き合い方が変わる。

それが現時点でのわたしの結論です。みなさんはどう思われるでしょうか。