「日本における医学部偏重は、経済悪化の一因になっているんです」。著書『お金のむこうに人がいる』で、「お金の流れ」ではなく「人の動き」で経済を見直す経済観を提示した元ゴールドマン・サックス金利トレーダーの田内学氏がある日、そうつぶやきました。「え? それどういうこと?」と、本人に訊きました。(構成:編集部/今野良介 初出:2022年2月3日)
「諸君は国から4億円近くの出資を受けて医者になるのだ。コスパ最高とかラッキーで得したと思ってないか?(中略)そんな腐った根性の人間は医師になる資格がない。さっさと退学しろ」
これは、「グランドジャンプ」に連載中の漫画『Dr.Eggs ドクターエッグス』(三田紀房・作)の中のセリフです。
「成績が良い」という理由だけで国立大学医学部を受験し、見事入学を果たした医師の卵である主人公が、真の医師になるまでのリアルな学生生活を描いたマンガです。第一話では大学初日のオリエンテーションで、指導教官である古堂というキャラクターから、このきついセリフを投げかけられます。
『ドラゴン桜』で有名な三田紀房節とでも言いたくなるインパクトの強いこのセリフ。マンガでは主人公の覚悟を促すために使われていますが、私はこのセリフを見て、現在の日本社会における「優秀な人のタイトルコレクションによる経済損失」の問題をひと言で表していると感じました。
「医学部進学」という日本特有の勲章
日本は異常なまでの医学部偏重主義が蔓延していると言われています。多くの学校の先生が、成績の良い子にはとりあえず医学部を行かせようとしますし、医学部に進学する生徒数が多い高校ランキングなんかも発表されています。東大理三(主に医学部に進む)にでも合格しようものなら、子どもも親も勲章でも授かったかのような扱われ方をします。
「人を助けたい」という思いから医者を目指す学生がほとんどだと信じたいですが、周りからの評価を気にして医学部を目指す学生がいるのも事実です。そうした学生たちは、漠然と医者を目指しているために、医者ではない道に進むこともしばしばです。そして彼らの中には、次の勲章探しにと、医者にならずに就職活動を始める人たちもいます。
僕がゴールドマン・サックスのトレーダーだった当時、デスクの採用担当もしていたので、毎年多くの学生のエントリーシートを読みました。驚いたことに、たった100人しかいない東大医学部の学生のうちの数人が、毎年、ゴールドマン・サックスという一企業に就職を希望しました。
冒頭のセリフにもあるように、医学部で医者一人を育てるには多額のお金がかかると言われています。これには学生が支払う授業料だけでなく、国などからの援助も含まれています。
税金を使って医者の卵を育てても、医者にならずに別の道に進む人は毎年たくさんいることがしばしば問題として取り上げられ、「税金のムダ遣いだ」と言われることがあります。「さっさと退学しろ」と先生が言いたくなったとしても、無理はないでしょう。
「ムダ遣い」は税金だけの話ではない
これは、税金が投入されている国立大学だけの問題ではありません。
私立大学の医学部であっても、「先生、医学部卒業したけど、僕は外資系金融で働きます」という学生に、「そうか! バリバリ稼いでこいよ!」と言える先生はなかなかいないのではないでしょうか。
せっかく手塩にかけて6年間育てた学生が医者にならなかったときに、「自分の労力がムダになったのではないか」と寂しく感じる。これは、国立私立関係なく同じだと思います。
医者を育てるときに必要なのは、4億円(金額については諸説あり)というお金ではありません。その金額が表しているのは、さまざまな人の労力の集合です。たとえば、学生を直接指導する先生や医療関係者の人件費。テキストや機材などの物の購入にもまた、その生産活動に携わる人すべてにお金が支払われています。
「経済」というと「お金の流れ」だけに目が行きがちですが、重要なのは、お金によって費やされた誰かの労力やその生産物が、社会にとって有効に使われるかどうかです。
そして、働く人がいなければ、お金を流す量を増やしてもどうにもなりません。昨年、医療サービスの提供が滞ったとき、どれだけ政府が予算を増やしても、医療従事者の人数を急に増やすことはできませんでした。
私は、昨年9月に『お金のむこうに人がいる』という本を書きました。実体経済を正しく把握するためには、お金の流れだけを見るのではなく、その向こう側にいる「人」に注目する必要があります。お金が流れていても、労力を有効に使えなければ、私たちの生活が豊かになることはないからです。
これから少子高齢化で働く人の数は減っていきます。労力を無駄にしないことや、未来の社会に必要な人材を育てることがますます必要になっていくと思います。
「税金がもったいない」「お金がもったいない」だけではなく、「労力がもったいない」と一人ひとりが思って行動を変えないと、社会全体がますます困窮していきます。
もちろん、医者を目指した人が、結果的に他の道に行くこと自体は悪いことではありません。目指す過程の中で、別のモチベーションが生まれることもあると思います。ただ、医学部の教職員の労力や、そこで学んだことをなるべく無駄にしないようにキャリアを積み上げられた方が、社会にとっても、自分にとっても幸せなことだとわたしは思います。
かくいう私自身、情報工学を専攻しながら、金融の世界に進みました。しかし、プログラミングで鍛えた論理的思考力が金融での仕事に活かされましたし、「社会のために役立つ仕事に就いてほしい」という教授の想いが、『お金のむこうに人がいる』という本を書く動機につながりました。S教授、ありがとうございました。