「経済効果」って何? と聞かれて、即答できるでしょうか。何となくいいことのように思うけど、よくわかんない。そういう時は何かが「ごまかされて」います。新刊『お金のむこうに人がいる』を著した元ゴールドマン・サックス金利トレーダーの田内学氏が、「経済効果」という言葉に隠されているものを明らかにします。(構成:編集部/今野良介)

「経済効果」に隠された「ムダ」の正体Photo: Adobe Stock

「経済効果」という言葉に潜むワナ

「2024年に紙幣が一新される。この新紙幣発行による経済効果は1.6兆円と試算されている」

というニュース記事がある。

経済の「効果」が1.6兆円というからには、僕たちにとってすごくいいことがありそうな気がする。

だが、ここに大きな罠が潜んでいる。「経済効果」という言葉を誤解していると、知らないうちに僕たちは疲弊してしまう。

この記事の意味を改めて考えてみよう。2024年に、一万円札の肖像画は福澤諭吉から渋沢栄一に変わる。紙幣のデザインを新しくするには、さまざまな機械を買わないといけない。日本銀行が買うのは、紙幣を発行する印刷機械。金融機関は、新紙幣を読み取るATM。自動販売機を保有している人たちも機械を新しくする。これら機械の購入に使われる費用の合計が1.6兆円だ。これを経済効果と呼んでいる。

このとき、次の2つの変化が同時に起きている。

① お金が移動すること
② 労働がモノに変換されること

まず、①お金が移動すること、について。「機械を新しくすることが、1.6兆円の需要と新たな雇用を生む」と言う人がいる。1.6兆円の仕事が発生したことで、社会全体の収入は1.6兆円増える。だけど、1.6兆円もらえるのは、生産者側の視点にすぎない。たしかに、ATMを作る会社や関連する会社の売上が増えることで、そこで働く従業員の給料は増える。新たに雇われる人もいる。

その一方で、社会全体の支出も1.6兆円増えている。ATMを買い換える銀行のお金は減ってしまう。それによって銀行員の受け取る給料が減るかもしれないし、僕たちが保有する銀行口座の維持手数料が増えるかもしれない。

この「1.6兆円の経済効果」の意味は、「1.6兆円移動させた」という意味でしかない。社会全体で見れば、お金は増えていない。社会全体にとって大事なのは、お金の移動よりも、②労働がモノに変換されること、のほうにある。

「割に合わない労働」が隠されている

労働がモノに変換されることに注目すると、何が見えてくるか?

1.6兆円のお金が流れることで、数多くの労働がつながり、印刷機やATMや自動販売機などが新たに製造され、新紙幣の使用を可能にする。この新しい紙幣がもたらす効用は、主に紙幣の偽造防止に役立つことだ。

人口55万人の鳥取県の1年間の県内総生産が約1.9兆円だから、1.6兆円というと、それに匹敵する労働が注ぎ込まれることになる。この膨大な労働の負担に比べて、紙幣を利用する僕たちが感じる効用が大きければ、この生産活動は社会にとって十分意味があることだ。しかし効用が小さければ、社会の負担が大きすぎることになる。

これが自然に発生した生産活動であれば、いちいち負担と効用を比較しなくても問題ない。労働の負担よりも効用のほうが必然的に大きくなるからだ。働く人は1.6兆円もらえるなら労働を負担してもいいと考え(1.6兆円>労働の負担)、利用者はその効用が得られるなら1.6兆円払ってもいいと考える(効用>1.6兆円)からだ。「効用>1.6兆円>労働の負担」という不等式が成り立つ。

ところが、この新紙幣の発行のように、政府の政策などによって半ば強制された生産活動ならば、「労働の負担>効用」になってしまうことも十分あり得る。人々の生活を豊かにする何らかの効用が生まれるのではなく、ムダな仕事だけが増える可能性があるのだ。

僕は新紙幣の発行を批判したいわけではない。大事なのは「どれだけの労働が、どれだけの幸せをもたらすか」を考えることだ。「GDPを増やす」「雇用を創出する」という目的のために経済効果に目がくらむと、割りの合わない労働を生み出してしまう。

経済効果は、お金の移動量を表す数字でしかないのだ。だから、「経済効果」という言葉を聞いたときは、まず「効用のよくわからない生産活動なのではないか?」と疑ったほうがいい。数字にごまかされて、効用に見合わない労働や資源が投入されているのを放っておくと、社会はどんどん疲弊していく。

(了)