「経済のために」「経済を回すべきだ」。政治家も経済評論家もテレビのコメンテーターもこぞって使うこの言葉の意味を、あなたは説明できるだろうか。なんだかいいことのように思えるけど、よく意味がわからない。よく意味がわからないのに納得させられてしまうということは、「何かをごまかされている」のだ。「経済を回す」とは、誰が、何をすることなのか。お金は、どこからどこへ動くのか。その目的は何なのか。9月28日発売の新刊『お金のむこうに人がいる』は、そういうことを一から説き起こす。専門用語も計算式も出てこない、誰でも最後まで読み通せる「やさしい経済の入門書」だ。お金を取っ払って「人」を見れば、とたんに経済はシンプルになる。この記事では、本の前書きを全文公開する。(構成:編集部/今野良介)

「経済のため」とは、誰のためか?Photo: Adobe Stock

経済の専門用語は「ごまかす時」に使われる

「部屋の中に母と娘の親子が2組いる。しかし3人しかいない。どうしてだろう?」

子どもの頃、『頭の体操』という本を読むのが好きだった。本の中に、このような趣旨の問題があったことを覚えている。

常識にとらわれていると解けない「謎」が次々に出題される本だった。
この謎の正解は、「部屋の中には、娘、母、祖母の3人がいたから」だ。
部屋には「娘と母」「母と祖母」の2組の親子がいたのだ。

この本の謎はすべて、答えにたどり着くために特別な知識は必要なかった。どの謎を考えるときも、子どもも大人も、みんな同じスタートラインに立つことができた。

いちばん深刻な経済問題

大人になって、ある晩テレビをつけると、経済の専門家たちが討論をしていた。金利政策を変えることが経済に及ぼす問題について語っている。

すぐにテレビのチャンネルを変えた。つまらない経済の話は専門家に任せておいて、クイズ番組でも観ていたほうがずっと楽しいから。

クイズ番組にしても『頭の体操』にしても、「問題」を出されるとつい考えたくなってしまう。それなのに、「経済の問題」は専門家任せにしたくなる。これはなぜだろう。経済の問題は自分にも影響があるはずなのに。

僕たちの暮らす社会はいくつもの経済問題を抱えている。
その中で最も深刻なのがこの問題だと思う。
ほとんどの人が、経済の話に興味を持てないことだ。
僕もそうだった。もしかして、あなたもそうではないだろうか?

子どもの頃は、誰もがいろんなことに興味を持ち、疑問を持っていた。経済やお金のことにだって一度は興味を持ったはずだ。

「お金に価値があるなら、どうしてお金をコピーしないのかな?」

たとえばそんな疑問が生まれたとする。自分で考えても答えがわからないから大人に聞いてみる。すると「コピーしたら警察に捕まっちゃうんだよ」と答えてくれた。

「え、そうなの? お金をコピーするのは悪いことなの?」

子どもの疑問は続く。今度は大人が「お金が増えると、お金の価値が減っちゃうんだよ」と教えてくれる。そういえば、スーパーで山積みになって売れ残ったバナナが安く売られていた。それと同じで、お金がたくさんあったら価値は減ってしまうのかな、と思う。

でも、まだ疑問は残る。日本は、国民から税金を集めるだけでは足りなくて、たくさん借金をしていると聞いたことがある。

「お金が足りないなら、やっぱり、コピーしたらいいんじゃないの?」

今度は専門家が出てきて、こう言う。

「ハイパーインフレが起きないように、紙幣の発行量を日銀がコントロールしているんだよ」

専門用語が出てきて、途端に経済に興味を失ってしまう。興味を失うと、それ以上思考が深まることはない。「どうせ自分は蚊帳(かや)の外だ。経済のことは専門家に任せておこう」と思ってしまう。

この謎の答えはもっと意外で興味深いものなのに、専門用語を知らないと、そこにたどり着く前に退場させられてしまうのだ。

僕も、社会人になるまでは蚊帳の外にいたが、ゴールドマン・サックスという会社で働くことになって、経済について考えるようになった。そこでは、日本政府の借金である日本国債などを扱う、金利トレーディングという仕事をしてきた。取引相手は、銀行や保険会社などの金融機関や、世界中のヘッジファンドだった。一度の取引量は数百億円から数千億円におよんだ。

このトレーディングの仕事では、経済を見誤ることは命取りになる。16年間そういう仕事をしながら、経済や政府の借金など「お金」のことをとことん考えてきた。しかし、自分の頭で考えるときに専門用語は必要なかった。専門家が専門用語を使うのは、相手をごまかそうとするときだ。自分をごまかしながら考える人はいない。

経済の話が難しく感じるのは、決してあなたのせいではない。専門用語を使わなければ、誰もが同じスタートラインに立って考えることができる。だからこの本では専門用語や難しい数式を一切使っていない。出てくる数式は、足し算と引き算くらいだ。そもそも、僕は専門用語を使うのが得意ではない。

この本を書くきっかけになったのは、経済に関する2つの「謎」との出会いだった。

1つは「政府の借金の謎」。日本政府は1000兆円もの借金を抱えているのに、どうして破産しないのか。世界中のヘッジファンドが日本が破産することに賭け、日本国債の空売りでひと儲けを企んだ。しかし、そのほとんどが大損をして去っていった。彼らはこの謎が解けなかった。

そして、もう1つは、小学生の頃に理不尽に感じた「ざるそばの謎」だ。

僕の両親は、地方でそば屋を営んでいた。両親ふたりだけで切り盛りするそば屋の2階が、僕たち家族の住まいだった。土曜日のお昼時、1階ではお客さんが一盛り400円のざるそばを食べ、2階では僕が同じざるそばを無料で食べていた。どちらも両親が作っている同じざるそばだ。

1階でざるそばを食べるお客さんの中には、「金を払っているのは俺だぞ」と言わんばかりに偉そうにする人がいた。僕が食事を作る両親に対して偉そうにすることはない。あたりまえの話だ。

なのにどうして、食事を作っている両親の立場が低くなるのか? 理不尽な大人の世界が不思議でしょうがなかった。

「お金がそんなに偉いのか? 働く人は偉くないのか?」

これが、ずっと僕の頭の片隅で引っかかっていた謎だ。働いている人なら一度や二度は同じ疑問を感じて、だけど、それが経済なんだと諦めていないだろうか。

ゴールドマン・サックスという資本主義ど真ん中の会社で働いてみて僕は確信した。お金は偉くない。そして経済は、お金ではなく人を中心に考えないといけない。

道徳の話をしているのではない。これは経済の話だ。

純粋に経済を突き詰めて考えたときに見えてきたのは、お金ではなく「人」だった。

実はこの「ざるそばの謎」も「政府の借金の謎」も、根っこは同じだ。金融・経済のプロであるはずのヘッジファンドが「政府の借金の謎」を解けなかったのは、「働く人」の存在を無視して、お金だけを見ていたからだった。

経済の主役は、言うまでもなく人だ。誰が働いているのか、そして誰が幸せになっているのか。人を中心に経済を考えれば、経済を直感的に捉えることができる。

本書は3部構成になっている。第1部では、僕たちが抱いているお金への過信を打ち砕くことから始める。モノを手に入れる力を持つお金、価値のモノサシとしてのお金を過信してはいけない。お金への過信が消えると、人と人との関係が見えてくる。人を中心に経済を考えるべき理由も見えてくる。

第2部では、お金ではなく「人」を中心に据えて、経済をゼロから考え直していく。経済は人々のために存在している。誰もがひれ伏す「経済のために」という言葉にダマされてはいけない。お金を使うことだけの「経済効果」が強調された政策が優先されると、僕たちは疲弊してしまう。

第3部で考えるのは、社会全体の問題について。社会全体の問題は、実はお金では解決できない。お金ではなく「人」を中心に考えると、問題の本質が見えてくる。解決するために僕たちが今、何をすべきかを考えていく。

読者の中には、第1部のお金の話よりも社会が抱える問題に興味がある人もいるだろう。また、お金のことは十分理解していると思っている人もいるだろう。そんな人たちも、是非、第1部から読んでほしい。第3部から読むとただのお金の問題にしか見えなくなってしまうからだ。

本書の最後では、ある謎を一緒に考えてもらいたい。この最後の謎は答えがまだ見つかっていない。僕がこの本を書いた動機がそこにある。なるべく多くの人にその謎を考えてほしいと思っている。

そして、あなたにこう感じてもらいたいと思って、僕はこの本を書いた。

「経済の問題は、専門家だけに任せるものではない。自分も考えよう。そのほうが未来の社会はずっと良くなる」と。

(了)