オイルショックPhoto:JIJI

石油ショックの時期に
伊藤忠が抱えた三つの案件

 1974年、伊藤忠の社長は中興の祖と呼ばれた越後正一から戸崎誠喜に代わった。

 戸崎は在任中の思い出を次のように語っている。

「在任中の大きな案件としては、(1)安宅産業の合併(2)東亜石油問題(3)東京本社ビル(青山、外苑前)の建設-の三つが挙げられます。

 安宅問題については、とくに同じ総合商社として、総合商社に対する内外の信用の失墜を招くような事態だけは食い止めなければならないと思いました。もちろん伊藤忠としても経営はきつかったので、私は、合併を前提にしない業務提携から始め、やがて合併に至るという選択をしたわけです。

(略)

 次に、石油ショックのあおりをまともにうけた東亜石油問題ですが、欠損を整理するため、知多および川崎の2精油所を処分する方向で計画をすすめ、昭和54年、知多精油所は日本鉱業に買いとってもらいましたが、昭和シェル石油と経営責任を折半した川崎精油所で欠損が続きました。原油論入のために手当てしていたタンカーの傭船契約から生じる損とともに、私の社長在任中には完全に解消せず、結局、米倉現社長(ママ)に引き受けていただきました。東亜問題では、本当に苦しみました。

 東京本社ビルの用地買収については、当時の瀬島業務本部長に大変苦労をかけました。前後10年くらいかかっているのです。建設に当たっては、時あたかも伊藤忠の経営が一番苦しい時期であり、反対意見も多かったのですが、いざとなれば売ったらいいと密かに心に決めて、伊藤忠の将来の発展のために、あえて踏み切りました」(『峠越えの道』から)