オートマチックな経済が理想
スミスの自然神学では、神は人間にいったん「利己心」という本能を与え、後は人間にまかせるという説が主張されています。だから、神は人間を創造した後は自由にやりなさいということで、人間はその本能をどんどん活用すればいいのです。人間はせっかく神からいただいた「利己心」があるのですから、これを十分に発揮することこそが、神の意図にかなうものだというわけです。
「外国産業よりも国内の産業活動を維持するのは、ただ自分自身の安全を思ってのことである。そして、生産物が最大の価値をもつように産業を運営するのは自分自身の利得のためなのである……」(同書)
「だが、こうすることによって、かれは、他の多くの場合と同じく、この場合にも見えざる手に導かれて、みずからは意図してもいなかった目的を促進することになる」(同書)
すなわち、スミスによれば「利己心」という一般的には悪徳と思われるものが、知らず知らずのうちに社会公益の福祉を進めます。神が人間に埋め込んだ「利己心」が自動的に働いているのであって、人間が理性的にごちゃごちゃ考えないほうがよい。むしろ神から与えられた「利己心」を最大に発揮すること、それを怠らないようにすることが大切なのです。
「利己心」を発揮すると、「節約」「勤勉」などの徳が生まれるとされます。特に、健康や財産、社会的地位や名誉について配慮するという自己啓発的な態度が生まれます(「慎慮」の徳)。市場価格も自由競争によって、つまり商人たちの利潤と人々の需要によって自動的に決定します。このように、個人の利己心が公益に通じていくのは、神の「見えざる手」によるものですが、これが実現するにはある条件が必要です。それは、社会の経済生活が完全に自由競争でなければならないという条件です(近代経済学では完全競争と呼ばれる)。はたしてこれでよいのかは、後に議論のテーマとなっていきました。
自由放任の自然的な経済によって国が政策を行っていくことにより、人々の本性に従って労働が富を生み、結果的に国家全体が潤っていく。そう思って働けば、新しい視点が開けるかもしれない。