近代建築の草分けとなった
辰野金吾と曽禰達蔵
佐賀県の北西に位置し、玄界灘に面する唐津市。幕末には小笠原家唐津藩6万石が領する城下町だった。
佐賀県立唐津東高校のルーツは、唐津藩が1871年に設立した英学校「耐恒寮(たいこうりょう)」という藩校までさかのぼることができる。わずか1年3カ月の短い間にすぎなかったが、この藩校で学んだ者の中から、後に建築界などで活躍する多くの俊英が輩出した。
唐津東高校ではこの藩校出身者も、広く同窓生の一員とみなしている。
「耐恒寮」の教員には、米国帰りの高橋是清が就いた。後に日銀総裁、蔵相、首相になる、明治から昭和にかけての大物財政家だ。
高橋の薫陶を受け、明治日本の近代建築の草分けとなった辰野金吾と曽禰達蔵(妻は高橋の実妹)の2人が巣立った。
辰野は、1973年に工部省工学寮(のちの工部大学校、現在の東大工学部)に第1回生として入学、英国留学後に工部大学校教授に就任した。日本銀行本店や東京駅丸の内駅舎など、後に重要文化財に指定される多くの建築物の設計者として著名だ。
曽禰は辰野と一緒に工学寮で学び、三菱に入社し、東京・丸の内の三菱系事務所建築群(三菱煉瓦街)などの設計に携わった。長崎造船所占勝閣、慶応義塾大学図書館などが現存する。
大正から昭和にかけての建築家で文化勲章を受章している村野藤吾は、福岡県小倉工業学校(現県立小倉工業高校)卒だが、唐津の代々、船問屋を営む家に生まれ、12歳まで唐津で育った。辰野、曽禰、村野という建築界の大御所が唐津出身であることを、唐津市民は誇っている。
「耐恒寮」からはさらに、経済学者で早稲田大第2代学長を務めた天野為之、炭鉱家の吉原政道、鉱山技師で日本の石炭事業の開拓期に先駆的な足跡を残した麻生政包(まさかね)、佐賀銀行の前身である唐津銀行の創設者・大島小太郎らが巣立っている。