ロシア・ウクライナ情勢、中国の経済面・軍事面での台頭と台湾・香港をめぐる緊張、トランプ前大統領の動きをめぐるアメリカ政治の動揺、そして日本で選挙期間中に起こった安倍晋三元首相襲撃事件……これらのことを見て、「このままで民主主義は大丈夫か」と不安になる人は、むしろ常識的な感覚を持っていると言えそうです。自由な選挙、非暴力の議論、権力の濫用のない政治と国民すべてに平等な機会がある中での経済発展のような、民主主義がもたらしてくれることを期待されている価値観が崩れかけています。決められない、豊かさをもたらさない延々と議論が続く民主主義でなく、専制的であっても決断力と行動力のある、強いリーダーがいいと考える国も出てきています。それでも民主主義が優れていると言えるのは、なぜなのでしょう? 困難を極める21世紀の民主主義の未来を語るうえで重要なのは、過去の民主主義の歴史を知ることです。民主主義には4000年もの過去の歴史があり、時に崩壊し、そのたびに進化を繰り返しながら進んできました。刊行された『世界でいちばん短くてわかりやすい 民主主義全史』は、現代に続く確かな民主主義の歴史をコンパクトに、わかりやすく解説しています。オーストラリア・シドニー大学の著者、ジョン・キーン教授が、西欧の価値観に偏りすぎないニュートラルなタッチで語る本書は、現代を生きるための知的教養を求める日本人読者にぴったりの一冊です。同書の中から、学びの多いエピソードを紹介します。(訳:岩本正明)
言葉巧みなデマゴーグたちが市民を懐柔
振り返れば、民主主義と軍の密接な結び付きが、アテネの命運を分けたことがわかる。アテネ帝国が紀元前5世紀に絶頂を迎えると、国内での政治的自由には制限が加わり、デマゴーグが台頭した。
キモンやペリクレスなど、選任された軍の指導者が不当な権力を持つようになり、彼らは何期ものあいだ、その地位を維持し続けた。軍が自分たちの問題を取り上げてもらうために、民会の進行に口を挟むことが許された。つまり、アテネの命運を決する彼らの強大な権力が、政党や法律によって抑制されることなく、いかに言葉巧みに民衆を懐柔できるかに大きく依存するようになったのだ。
ペリクレスは自身をアテネの軍船サラミニア号になぞらえることで、カリスマ性を高めた。権力の座を維持し続けた紀元前454~429年のおよそ四半世紀のあいだ、彼は緊急事態への対処など急を要するときにだけ、民会の場に姿を現した。彼の不在は謀略と怒りを醸成した。
トゥキュディデスらは、彼が姿を現したときは、不遜な君主のようだったと不満を述べている。ペリクレスは戦死者を追悼する会葬者に対して、「人が人を支配せんと主張すれば、支配のつづくかぎりかならず人の憎悪をうけ、また人に苛酷に報いる」と述べている。
「諸君、肝に銘じて忘れてはならぬ、われらが築いたこの国は、いかなる艱難にも屈せず、いかほどの人命を失い苦痛を負うとも不動なることによって世にならびない高名を馳せ、今日までに比類なき勢力をたくわえてきた……われらはギリシア人としてギリシア世界にかつてなき支配権を築き、かつてなき多数の敵勢の同盟軍を凌ぎ各軍を退け、しこうして、あらゆる資源の豊富さと規模の壮大なることにおいて他の追従を許さぬ国を築いた。」(『戦史』トゥキュディデス、中央公論新社、久保正彰訳)
偉大な指導者の言葉は、アテネの民主主義の終わりの始まりを予感させた。その後退は戦争での勝利によりカモフラージュされることで、じりじりと続いた。帝国を維持するために軍が政治を飲み込み、アテネは徐々に蝕(むしば)まれていき、帝国内外で嫉妬と羨望を生み出すことになる。国内では、アテネの人々が妄想と呼ぶ、きわめて有害な力を生み出した。
紀元前451年に可決された市民権法は、外国人居住者と解放奴隷がアテネ市民になるのを防ぐことが目的だった。彼らは内なる敵のように扱われた。ときには全市民が強制的に海軍や陸軍に徴兵され、隣国と戦わされた。そのうえ、兵役の義務を放棄、もしくは回避した市民の市民権を取り上げることを可能にする法律が、民会で可決された。
民主主義と軍の蜜月は広範囲にわたる地政学的影響を持ち、地域一帯の民主主義国家にとっては凶報だった。エーゲ海のミロス島は紀元前416~415年にかけて、アテネによって封鎖された。その結果、飢餓が起き、住民は裏切りと争いに苛(さいな)まれ、無条件降伏につながった。アテネの民主主義者は、すぐにミロスの政治体制を解体した。
民主主義の名の下に、男性軍人を全員処刑し、女性と子どもを奴隷として売り、幼児と年寄りは狼の餌にした。500人の入植者がミロス島に派遣され、アテネの植民地となった。残虐さと流血にまみれた、民主主義による統治が確定したのだ。
このミロス島の一件から学べる教訓はいったい何か? 第一に、民主主義国家も軍事強国となり、近隣諸国に対して残虐な暴力を振るうことができる、ということだ。また、暴力はアテネにとって諸刃の剣だった。苛烈な暴力による支配を受けて、敵国がアテネ──偽善とヒュブリスの血にまみれた国──を跪(ひざまず)かせることに血眼になったからだ。
紀元前359年、アテネはフィリッポス2世率いるマケドニア王国に屈した。その3万2千人にものぼる強大な軍隊は、アテネと同盟国をボイオティアにおけるカイロネイアの戦いで敗った。マケドニア人はすぐにアテネに対する包囲網を狭め、紀元前322年にはラミア戦争でさらなる大勝利を飾った。そのときのアテネの代償は大きなものだった。
和平合意の一環として、マケドニアの軍隊がアテネに侵攻し、民主主義は寡頭制に置き換えられた。1万2千~2万2千人の市民が市民権を剥奪(はくだつ)され、遠方のトラキアに送り込まれる市民もいた。ヒュペレイデスやデモステネスなどの著名な民主主義者が処刑された。
民主主義者がアテネの支配を取り戻すこともあったが、最終的にはマケドニア人が民主主義を完全に撤廃した。マケドニア王のアンティゴノス・ゴナタスは紀元前260年、軍にアテネを再び占領するよう命じた。古代の最も強力な集会民主主義の理想と制度が、ついに終わりを迎えたのだ。