「『完全を求めて、いつも失敗してきた。だから、もう一度挑戦する必要があった』。私はこの言葉を忘れたことがない。この言葉は私にとって、心にあって消すことのできない刻印となった」(『プロフェッショナルの条件』)
ドラッカーは、知識によって働く者にとって多少なりとも参考になるのではないかと言って、自らの経験をいくつか教えてくれる。
その一つが、イタリアの大作曲家ヴェルディの最晩年の作品「ファルスタッフ」との出会いだった。
小学校での飛び級のおかげで、17歳で高校を卒業したドラッカーは、右派、左派の社会主義者、カトリックの保守派が三つ巴の市街戦を繰り広げる荒廃した生まれ故郷ウィーンを出て、隣国ドイツの港湾都市ハンブルクで貿易商社の見習い事務員となる。学校には飽き飽きしていたためだという。
家は代々、学者、官僚、弁護士、医師を輩出してきた。そこで親の手前、ハンブルク大学の法学部に籍だけは置いたという。
しかし、商社事務員の生活に満たされるわけはなかった。そこで、夕刻から先は、図書館での乱読、オペラ座での音楽鑑賞という日々が続くことになったという。
ハンブルクのオペラ座は、当時の欧州では最高水準にあった。しかも学生は、上演の1時間前から並ぶと、売れ残りの安い席の切符をもらえた。そしてある夜、大曲「ファルスタッフ」を初めて聴き、衝撃を受ける。ヴェルディの26作品の中で2作しかない喜劇のうちの一つだった。
シェイクスピアの喜劇「ウィンザーの陽気な女房たち」を原作とし、人生を謳歌するその作品は、ヴェルディ80歳のときの作品だった。平均寿命が50歳そこそこだったその頃では、80歳まで生きたというだけでも偉業だった。
作曲家として功なり名遂げたあと、なぜあのような難曲に取り組んだのかを聞かれたヴェルディの答えが、「完全を求めて、いつも失敗してきた。だから、もう一度挑戦する必要があった」だった。
「私は、その時そこで、一生の仕事が何になろうとも、ヴェルディのその言葉を道しるべにしようと決心した。そのとき、いつまでも諦めずに、目標とビジョンをもって自分の道を歩き続けよう。失敗し続けるに違いなくとも完全を求めていこうと決心した」(『プロフェッショナルの条件』)