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誰もが知るところの稀代の芸術家・岡本太郎。彼は、芸術は職能などではなく、生活の根本にあるものと捉え、古典作品や文学を「伝統」と位置づけることを否定した。その真意について、岡本太郎の過去の著作を再編した『誰だって芸術家』(SB新書)より一部抜粋してお送りする。
現在の日本の「伝統」は
大衆の生活とは無関係につくられた
日本のように伝統についてうるさくいうくせに、その本質を見誤っている文化国は珍しいんじゃないだろうか。
偏見のひとつは、伝統とは過去の出来事だと思いこんでいることだ。だから、とうぜん古めかしい。
こむずかしい知識を身につけたインテリとか、しぶい着物など着て能楽堂へでも出入りしている高尚な人だけに関係した問題で、満員電車でもみくちゃにされて通勤したり、喫茶店で恋人と待ち合わせたり、そのへんをぞろぞろ歩いている一般人とはまったく無縁という感じである。
日本の伝統はつまり骨董的な意味で古い人たちに珍重され、高く買われている。一方に、またその故にこそ若い世代には敬遠され、軽蔑されている。つねになまなましく生きるべき伝統が不幸にゆがめられているのだ。
もちろん伝統というものは、われわれ今日の日本人全体のものである。現実に生きている日本人こそがひろく受けつぐものだし、現に受けつぎ、新しくそれを生かしつつあるのだ。
けっして過去にたいして無知であっていい、ただ生きればいいというのではない。伝統は、逞しく生きることによって、正しい眼で過去と未来をにらみ合わせ、己れの責任においてそれを引き受けるところにのみ生きる。
私は、戦後、復員と同時に新しい芸術を主張し、古い権威にたいして無効を宣言した。
以来、成果は大いにあらわれたのだが、しかしひるんだ敵は、古典だ伝統だと叫んで、その突っかい棒にしがみついている。こいつをひとつ、ひっくり返して、こっちのものにしてやろう。トドメの一撃。
伝統なんて、彼らが少しも手を貸したわけではなく、自分たちの実力とはなんら関係がないのに、狡猾に、まるで自分たちの権威の道具にしてふり回しているのだ。こんなゴマカシから伝統の意味が誤解され、なにか暗い、カビくさい、若さとは関係のないもののような感じを与える。
若い世代に正しく受けつがれないで、なんの伝統だろうか。いわゆる「伝統主義者」とはぜんぜん違った立場から、新鮮な価値として再発見しなければならない。
それはアヴァンギャルドの一本槍、大手からの正面攻撃ばかりでなく、からめ手から攻め入って、本丸をひっくりかえす戦略でもある。
われわれの手によって新しく意味づけられ、さらに一段と高い価値として光を放ちはじめるものもあり、またいままでの雛段から放り出されるものもあるだろう。いずれにしても、ほんとうに現在的な問題をそこからつかみ出してくる。われわれ自身の伝統を見出し、つくりあげていく必要がある。
美術史、文化史を芸術家の尖鋭な立場で書き直す。これは近世以来見失ってしまった日本文化のプライドを、ポーズでなく実質的に打ちたてることであり、まさに緊急の課題である。
こういう不逞な情熱で、まったく傍若無人に再評価し、拙著『日本の伝統』を書いた。さぞかし伝統主義者側から反論ごうごうとまき起こるか、とたのしみにしていたのだが、いざ発表してみると、情けない。「いや、じつは私も、前からそう思っていた」などと、口を揃えて、ケロリとして讃辞を呈するのだ。
右に行っても左に行っても、ヌラリクラリとあざやかな身のさばき。われながら大ナギナタを空振りしたような具合だが、いつでも、相手はカッチリぶつかることがない。文化人たちのしょうのなさである。
西欧化に応じて急ごしらえされた
「伝統」なんかウソだ
そこで気がついた。日本にはじつは伝統観というものは無いのではないか。
「伝統」「伝統」と鬼の首でも取ったような気になっているこの言葉自体、トラディションの翻訳として明治後半につくられた新造語にすぎない。「伝統」という字はあるにはあったらしいが、今日のような意味は持っていなかったのである。
しかも伝統主義者たちは権威的にいろいろ挙げているが、しかしそれらが新しい日本の血肉に決定的な爪あとを立ててはいない。
いわゆる伝統とされているものの内容も様式も、大層にかつぎあげればあげるほど、かえって新鮮さを失い、時代と無縁になっていく。
伝統という観念が明治時代に形づくられたように、中身も明治官僚によって急ごしらえされた。圧倒的な西欧化に対抗するものとして、またその近代的体系に対応して。
たとえば西洋には美術史がある、こっちにもなくちゃ、というわけで、向こうの形をしき写して、それらしきものをつくりあげた。アプリケーションにすぎない。
廃仏棄釈の明治初期にほとんどすて去られて顧みられなかったお寺や仏像などが、西欧文化史のギリシャ・ローマの彫刻にあたる、というわけで、とつぜん日本芸術の根源みたいにまつりあげられた。それなら桃山期はさしずめルネッサンスだ。
……ひどく便宜的で、そこに一貫した世界観、芸術観がつらぬかれているわけではない。ただ当てはめて、並べた、よく考えてみれば、まったく三題噺みたいなものだ。
あわてて形式だけをペダンティックにつなぎ合わしたものでも、しかし文部省が公認して権威になると、教材として無批判に、有無をいわさず国民に押しつけてしまう。なんのことだかよくわからないけれど、結構なものだ、そう決まってるんだから、と。
……まことに味気ない。だがこの国では、学者、芸術家、文化人、すべてが官僚的雰囲気のなかで安住しているので、いっぺん決まってしまったことはまた、どうにもならないのである。







