健康法を知っているだけでは健康にはなれません。本当に正しいとされている健康法を、きちんと行動に移し、毎日無理なく続けるためには技術が必要です。本連載の「健康になる技術」とは、健康でいるために必要なことを実践するスキルです。簡単に言うと、健康になるために「What(何)」を「How(どのように)」行ったら良いのか、自分の環境や特性(弱点・強み)に合わせて実践する技術のこと。本連載では、話題の著書健康になる技術 大全の著者、林英恵が「食事」「運動」「習慣」「ストレス」「睡眠」「感情」「認知」のテーマで、現在の最新のエビデンスに基づいた健康に関する情報を集め、最新の健康になるための技術をまとめていきます。何をしたら良いのかはもちろんのこと、健康のための習慣づくりに欠かせない考え方や、悪習慣を断ち切るためのコツ、健康習慣をスムーズに身につけるための感情との付き合い方などを、行動科学やヘルスコミュニケーションのエビデンスに基づいて、丁寧にご紹介していきます。今回は、感情が高ぶっていると理性が効かなくなってしまう「ヒートオブザモメント」についてです。(写真/榊智朗)
監修:イチローカワチ(ハーバード公衆衛生大学院教授 元学部長)

【すごく嫌いな人とでもセックスを楽しめてしまう?】ハーバード大の授業でも大真面目に紹介された「ヒートオブザモメント」とは?Photo: Adobe Stock

すごく嫌いな人とでもセックスを楽しめてしまう? 理性が感情に負ける実験結果

 感情は、人が健康的な行動を取れるかどうかに大きな影響を与えます。人間の理性が、いかに感情に弱いかについて実験した研究があります。ハーバードの授業でも大真面目に紹介された論文です。

 アメリカで、「ヒートオブザモメント」と呼ばれる、男性が性的に興奮した状態とそうではない状態で、女性に対する見方やセックスに関する意識に、どのような違いが出るのかを調べる実験が行われました(*1)。カリフォルニア大学の35人の男子学生が参加し、必要な人には様々な性的な写真を見せて、興奮した状態を作り出しました。

 この実験では、性的に興奮状態の時とそうでない時に、彼らの理性がどのように影響を受けるのかを調べました。例えば、「女性が汗をかいているとセクシーだと思うか」といった異なる状況を見せて、性的に魅かれるかどうかを聞く質問や、「酔わせればセックスできるチャンスが高まるのでデート相手に飲酒を勧めるか」といった倫理観を聞く質問、「射精する前に陰茎を抜いても女性は妊娠するか」などの、安全ではないセックスの知識を聞く質問などからなる約30の質問です。

 これらに対し、ゼロ(全くそう思わない)から100(そう思う)までを答えの幅とし、自分の気持ちがどのあたりかを表現してもらいました。

 その結果、性的に興奮しているかしていないか、つまり感情の状態によって、彼らの女性に対する見方や、セックスに対する「知識」までもが大きく左右されることがわかりました。

 例えば、「自分がすごく嫌いな人とでもセックスを楽しむことができるか?」という質問に対して、性的に興奮していない人の平均値は53(「いいえ」と「はい」の真ん中くらい)ですが、興奮している場合、77にまで上がります。また、「その女性とセックスのチャンスを増やすために、愛しているというか?」に対して、興奮していない人の平均値は30、興奮すると50にまで上がります(*女性のみなさん、性的に興奮した男性の「愛している」は2割増しの可能性があります。気をつけましょう)。

「新しいセックスパートナーのセックス歴(経験人数や過去にどのようなセックスをしてきたかなど)を知らなかった場合、いつでもコンドームを使うか?」に対しては、興奮していない場合は88とそう思う人が多いのですが、興奮すると、この値が69まで下がりました。

 結果的に、ほとんどの質問において、性的に興奮して感情が高ぶっている状態では、その場限りの自滅的な行動を取りやすく、感情が、モラル、理性や知識、そして意志の力に勝てない状態を証明する結果となりました。余談ですが、この実験に参加した男子学生は最大で30ドル(約4000円)の謝礼が渡されました。改めて、彼らの協力に感謝です。

 たとえ知識や良識、理性があったとしても、人間の心は、感情に見事にハイジャックされてしまうのです。性的に興奮した状態での感情の高ぶりを例に挙げましたが、感情が理性に勝てないことは、様々な健康の分野で証明されつつあります。喫煙、アルコール摂取、食生活、先ほどの衝動的な行動など、健康の行動習慣においても感情の重要性は認識されています

 感情の大切さや、人が理にかなった行動を取れない理由については、先ほどの行動科学に加え、行動経済学の分野で特に研究が進められてきました。

 行動経済学は、1980年代に経済学の分野から発展してきた学問です。2017年のノーベル経済学賞で、行動経済学の研究者であるリチャード・セイラー教授が受賞したのも記憶に新しいところです。

 それまでの経済学では、先ほどの行動科学同様、「人は理にかなった行動をする」という前提で物事を考えていました(*2)。つまり、人は理にかなった行動をするという考えで、人間の論理性や合理性に重きをおいていたのです。

 ところが、この前提だと、直感的や突発的な行動を説明するのに無理があり、現実とそぐわないことが出てきました。この矛盾を説いたのが、「行動経済学」です。一説には、行動経済学が、実践で役に立つ健康づくりの方法を生み出すために、行動科学との融合で重要な役割を果たしたともいわれています(*3)。

 感情が意思決定に与える影響について分析した学術論文は、2000年以降急激に増えています(*4)。学術論文全体の中でも、この分野が増える割合も増え続けていることがわかります。

 感情が直接体に影響を与えること(例えば怒りが脈や血圧を速くさせたりすること)はそれまでの研究でもわかっていましたが(*5,6)、健康習慣や行動の意思決定に関する感情の重要性が科学的に認知され、証明され始めたのは、ここ最近20年の話なのです。

 行動経済学では、人は、ある2つの機能を働かせながら意思決定をするといわれています。それが、感情の「システム1」理性の「システム2」と呼ばれる機能です。システム1は、感情や直感に基づく判断を下すもので、直感的かつ反射的に瞬時の意思決定を行います。一方で、システム2は、論理的に考えたことに基づいて、合理的な判断を下します

 みなさんも、仕事で疲れた日にふらっと立ち寄ったコンビニでビールを買ったり、無性にジャンクフードが食べたくなって、気づいたらポテトチップスを一袋空けてしまったり、感情のままに何か行動を取った経験があると思います(システム1)。

 一方で、大きな買い物をする時や、人生に関わる大事な決断をする時、プラスとマイナス面を考えながら、じっくり決断をすることが多いと思います(システム2)。人は感情のシステム1と、理性のシステム2とを無意識のうちに使い分けながら、日々の物事や行動を決定します。

 今まで、健康に関する分野で注目されてきたのは、理性のシステム2でした。これは、人は、知識を持ってきちんと考えれば、理性的な行動を取るという前提に立っています。しかし、そう一筋縄ではいかないのが人間です。

 特に、日本に住んでいるみなさんは基本的な健康習慣に関するほとんどのことは、その行動が健康に良いか悪いか、大体わかっているはずです(もちろん、時には、知らないがために、信じるべきでない情報を信じてしまったりということもありますが!)。だからこそ、システム1である、感情とどのようにうまくつきあっていくか、ということが健康を促進するための鍵として注目されるようになってきたのです。

【参考文献】

*1 Ariely D, Loewenstein G. The heat of the moment: the effect of sexual arousal on sexual decision making. J Behav Decis Mak. 2005;19(2):87-98.
*2 イチロー カワチ. 命の格差は止められるか ―ハーバード日本人教授の、世界が注目する授業: 小学館; 2013.
*3 Roberto CA, Kawachi I. Behavioral economics and public health. Oxford, U.K.: Oxford University Press; 2015.
*4 Lerner JS, Li Y, Valdesolo P, Kassam KS. Emotion and decision making. Annu Rev Psychol. 2015;66:799-823.
*5 Bodenhausen GV, Sheppard LA, Kramer GP. Negative affect and social judgment: the differential impact of anger and sadness. J Soc Psychol. 1994;24(1):45-62.
*6 Henry JP. Neuroendocrine patterns of emotional response. In: Plutchik R, Kellerman H, editors. New York, N.Y.: Academic Press; 1986.

【すごく嫌いな人とでもセックスを楽しめてしまう?】ハーバード大の授業でも大真面目に紹介された「ヒートオブザモメント」とは?林  英恵(はやし・はなえ)
パブリックヘルスストラテジスト・公衆衛生学者(行動科学・ヘルスコミュニケーション・社会疫学)、Down to Earth 株式会社代表取締役、慶應義塾大学グローバルリサーチインスティテュート特任准教授、東京大学・東京医科歯科大学非常勤講師
1979年千葉県生まれ。2004年早稲田大学社会科学部卒業、2006年ボストン大学教育大学院修士課程修了、2012年ハーバード大学公衆衛生大学院修士課程を経て、2016年同大学院社会行動科学部にて博士号取得(Doctor of Science:科学博士・同学部の博士号取得は日本人女性初)。専門は、行動科学・ヘルスコミュニケーション、および社会疫学。一人でも多くの人が与えられた寿命を幸せに全うできる社会を作ることが使命。様々な国で健康づくりに携わる中で、多くの人たちが、健康法は知っていても習慣づける方法を知らないため、やめたい悪習慣をたちきり、身につけたい健康法を実践することができないことを痛感する。長きにわたって頼りになる「健康習慣の身につけ方」を科学的に説いた日本人向けの本を書きたいと思い、『健康になる技術 大全」を執筆した。
2007年から2020年まで、外資系広告会社であるマッキャンヘルスで戦略プランナーとして本社ニューヨーク・ロンドン・東京にて勤務。ニューヨークでの勤務中に博士号を取得。東京ではパブリックヘルス部門を立ち上げ、マッキャンパブリックヘルス・アジアパシフィックディレクターとして勤務後、独立。2020年、Down to Earth(ダウン トゥー アース)株式会社を設立。社名は英語で「実践的な、親しみやすい」という意味で、学問と実践の世界を繋ぐことを意図している。現在は、国際機関や国、自治体、企業などに対し、健康に関する戦略・事業開発、コンサルティングを行い、学術研究なども行っている。加えて、個人の行動変容をサポートするためのライフスタイルブランドの設立準備中。2018年、アメリカのジョン・ロックフェラー3世が設立したアジアソサエティ(本部・ニューヨーク)が選ぶ、アジア太平洋地域のヤングリーダー“Asia 21 Young Leaders”に選出。また、2020年、アメリカのアイゼンハワー元大統領によるアイゼンハワー財団(本部・フィラデルフィア)が手がける、世界の女性リーダー“Global Women’s Leadership Fellow”に唯一の日本人として選ばれる。両組織において、現在もフェローとして国際的な活動を続ける。
『命の格差は止められるか ハーバード日本人教授の、世界が注目する授業』(小学館)をプロデュース。著書に、『健康になる技術 大全」(ダイヤモンド社)、『それでもあきらめない ハーバードが私に教えてくれたこと』(あさ出版)がある。