「禅問答にわかりやすい答えはない。だからおもしろい」。そう語るのは、弘前大学教育学部教授の山田史生氏だ。いまやグローバルなものとなった禅のもつ魅力を、もっとも見事にあらわした大古典、『臨済録』をわかりやすく解説した『クセになる禅問答』が3月7日に刊行される。この本は「答えのない」禅問答によって、頭で考えるだけでは手に入らない、飛躍的な発想力を磨けるこれまでにない一冊になっている。今回は、本書の刊行にあたり、その一部を特別に公開する。
地べたに引いた線は売れるか
臨済(りんざい)が院主(いんじゅ)にたずねる「どこへいっていたのか」。
「町のほうにモチ米を売りにいってきました」
「売りきれたか」
「売りきれました」
臨済は目のまえに杖でさっと線をひいて「これは売れるかな」。
院主は大声でどなる。
臨済は打つ。
典座(てんぞ)がやってくる。
臨済はさきのいきさつを話す。
典座「院主は和尚の真意がわかっておりません」
「そなたならどうする」
典座はすぐさまお辞儀をする。
臨済はやはり打つ。
典座:修行僧の食事をつかさどる役職。
のこらず売ってきた
院主は、臨済の問いかけを言葉どおりに受けとめ、「ちゃんとモチ米は売りきってきました」と答える。自分が勘弁(問答によって、僧の力量を試すこと)されていることに気づいていない。
「なに? 一粒のこらず売ってきただと? ほお、百八もある煩悩(ぼんのう)もひとつのこらず売ってきたのか? もはや執着もなくなり、すっかり悟ったということかな」と臨済はたしなめる。
モチ米を売りきってきたのは、それはそれでよろしい。しかし禅寺の事務長たるもの、ただモチ米だけを売りさばいてよしとするのではなく、ついでに煩悩を売りつくしてくるくらいの器量がほしい。
こいつは売れるかな
臨済はさっと杖で地べたに線をひく。こいつは売ってきたか、と。
モチ米を売りにいって「売れた売れた」とソロバンをはじくだけが、院主のつとめではない。いやしくも禅者のはしくれであるからには、売るべきものは、もっとちがうものだろう。
臨済が線をひいて「これは売れるかな」というときの「これ」とは、ひかれた線ではなく、線をひく行為自体のことである。
売りきったというが、売る行為そのものは売れたのか?
モチ米がなければ、もちろん売ることはできない。ただし院主のじっさいに売る行為によって、はじめて売ることはなりたつ。売ることのなかに、売るはたらきもふくまれている。売るという作用が、売ることの本性をなりたたせている。
「真理は主体性にあり」ということだ。