約260年続いた江戸幕府。そのなかでも名君といわれる徳川吉宗。しかし、吉宗は本来なら将軍になれる立場にはなかった。吉宗が将軍になれた理由とは。本稿は、齊藤颯人著、本郷和人・本村凌二監修『胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス教養』(サンクチュアリ出版)の一部を抜粋・編集したものです。
世継ぎ対策のため
保険をかけていた江戸幕府
「江戸幕府の将軍」といえば、生まれながらに次期将軍を約束されたエリートお坊ちゃまのみが就任できるというイメージがないでしょうか。
事実、初代将軍・徳川家康が息子の秀忠に将軍職を譲って以降、将軍は原則「徳川本家の長男」と定められており、3代将軍には秀忠の次男・家光(長男はすでに亡くなっていたため)、4代将軍には家光の長男・家綱が就任しています。
……が、もし「女の子」が生まれてしまったらどうするのか?江戸幕府の将軍が女性になることはなかったので、これではマズイ。子どもが生後すぐ亡くなる確率も今と比べ物にならないくらい高く、生まれた男の子がすくすく成長するとは限りません。何の対策もしなければ安定的な将軍継承はまず不可能でした。
そこで、江戸幕府はさまざまな「保険」を用意します。将軍は正妻だけでなく多くの妻(側室)を抱え、男子が生まれる確率を上げたほか、万が一の際には分家にあたる尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家の通称「御三家」からも養子を迎えることにしました。
この保険のおかげで、5代将軍には家綱が男子を残せなかったために家光の4男・綱吉が就任。綱吉の息子も早くに亡くなったため、6代将軍には綱吉の兄の息子・家宣が就任するという流れになりました。「自分の家の男の子に家を継がせる」のがいかに難しいかがわかるでしょう。
母の身分も低く
「保険の保険」だった吉宗
では今回の主役、吉宗はどうだったのでしょうか?徳川吉宗は、1684年に紀州徳川家の当主・徳川光貞の4男として生まれました。
吉宗が生まれたのは、本家の男子が断絶した場合に将軍になる権利を持つ紀州徳川家。将軍就任の可能性はほんの少しありましたが、吉宗には2人の兄(もう1人の兄は生まれた直後に亡くなった)がいたため、紀州徳川家の後継ぎですらありませんでした。酷な言い方をすれば、「保険(紀州徳川家)」の「保険(後継ぎの弟)」だったのです。
加えて、吉宗の母はかなり身分の低い女性だったという説が有力です。当時は父だけでなく母の身分も重要でした。母方の実家とのパイプが出世に有利に働いたり、藩主や将軍の座をめぐる争いで最後は母方の身分が決定打になったりしたからです。
吉宗は生まれの時点でハンデを背負っていたと考えるべきでしょう。