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長く続いた戦国の乱世を終わらせ、260余年続く江戸幕府を開いた徳川家康。偉大な人物に違いありませんが、武将として優れた軍事的センスを持っていたわけではなく、むしろ“平凡”でした。平凡な家康がなぜ戦国時代を生き抜き勝ち残ったのか。東京大学史料編纂所教授・本郷和人氏の『徳川家康という人』(河出新書)の一部を抜粋・編集して紹介します。
最後まで忠実に守った
信長との「清州同盟」
家康は、少しずつ頑張ってやがて三河で図抜けた存在になっていく。そこで尾張の織田信長との間に同盟を結びます。それが清洲同盟ですね。この同盟はいわゆる攻守同盟で、つまり「どちらかが攻められたらもう一方は助けに行く」という内容であるとされています。この清洲同盟が非常に有名なために、私たちは戦国時代の同盟を見誤ってしまう可能性があります。
家康はこの同盟を最後まで律儀に守り通しました。だから戦国時代の同盟はそれほど固く、みんな約束を守っていたのかと思うと、実はそんなことはまったくない。守り通した家康のほうが、よほどレアな存在でした。
戦国時代の同盟
有名なところでは、武田と北条と今川がいわゆる「三国同盟」を結んでいます。大名同士が同盟を結ぶ際は、娘を嫁がせたり、もらったりという形で、婚姻によって家と家の関係を深くするのがふつう。武田と北条と今川の場合も同盟を結んだ上に、さらに婚姻による二重三重に深い結びつきをもっていました。
北条は関東管領の上杉と戦って、関東地方を平定したい。武田は武田で信濃に自分の勢力を伸ばしたい。さらには上杉と戦いたい。こちらの上杉は関東管領ではなく、越後の上杉謙信(1530-1578)の上杉家ですね。この時期はまだ長尾景虎と呼ぶべきかもしれません。そして今川は背後から攻められることを気にせず西へ西へ、東海道沿いに勢力を伸ばしたい。
ということでこの三国が手を握ることはそれぞれにメリットがありました。逆にいえば、メリットがあるからこそ、同盟を結ぶ意味があった。しかし今川義元が桶狭間で戦死してしまった結果、今川は弱体化していきます。そうすると「いの一番」に武田信玄(1521-1573)が同盟を破って、駿河に攻め込む。
信玄の意図としては海が欲しかったのだろうと思います。彼の領土、甲斐国・信濃国は山間部ですから海がない。だからどうしても港が欲しくて、駿河に攻め込んだ。「港が欲しかった」という想定のひとつの裏づけとして、彼は駿河に攻め込んだのち、今川がずっと支配の拠点としていた駿府には本拠地を置いていないのです。どこに置いたかというと江尻。江尻は海に面していて港があった。この選択は、どれだけ海に出たかったか、港がほしかったかという根拠になると思っています。
戦国時代の同盟は
破られるもの
それはともかくも、このときの信玄のように、同盟といっても「裏切ることが前提」。いや、そこまではいえないかもしれませんが、「戦国大名同士の約束は破られるもの」という前提は常識ではありました。
たとえば浅井長政も織田信長との同盟を破棄し、攻めかけています。このときの浅井は、美人で有名な信長の妹を妻に迎えて、織田と婚姻関係も結んでいました。それなのに裏切ったわけです。こうした例を見ていると、家康が信長との間に同盟を結び、それを真面目に守り続けたことが、むしろ驚くべきことに感じられるわけです。
やがて信長は天下人と呼ばれる存在にまで駆け上がっていった。そうした彼を裏切ることは、正直お得ではなかった。メリットがなかったと見ることもできますが、それはあくまで現代からみた結果論であって、リアルタイムのときに先行きはわからない。だから実際に浅井長政は裏切ったわけでしょう。
いっぽう家康は、ひたすら信長との同盟を守り抜きました。しかもその清洲同盟において家康に与えられた役割は「対武田の壁」でした。武田の攻撃に対する防御です。
対武田の
捨て駒にされる
家康が期待された役割としては、ともかく武田が攻めてきたらその前に立ちはだかること。その役目を家康は律儀に守り続けたわけですが、しかしやはり当時の武田は強かった。三河武士団も家康に忠実で、すごく強かったという伝説がありますが、実は疑問があるのです。しかし武田は間違いなく本当に強い。そうした軍勢が攻めかかってくる。だから家康は信長に何回も「援軍を送ってくれ。助けてくれ」という要請を出しているのですが、信長のほうは援軍をぜんぜん送らない。けっこう家康のことを見捨てているのです。
武田信玄が西上作戦を開始し徳川に攻め込んだときなどは、武田の総力をあげて襲いかかってきた。家康もここは必死で信長に「助けてくれ」と救援を申し入れるのですが、やってきた援軍は三千。そんなものでした。信長にも事情はあったでしょうが、家康のことをいかに捨て石としか考えていなかったかがわかります。







