「サインは紙いっぱいに大きく書け」釜本邦茂が恩師から受けた忠告、その“驚きの理由”とは?故・釜本邦茂さん(左)2008年06月07日撮影 Photo:JIJI

かねてから病気療養中だった不世出のストライカー、釜本邦茂さんが8月10日に肺炎のために81歳で死去した。日本代表として国際Aマッチ通算76試合に出場し、歴代最多の75ゴールを決めている釜本さんは、1968年のメキシコ五輪で得点王に輝いて日本の銅メダル獲得の原動力になった。一躍世界から注目された釜本さんのキャリアのなかで、悲運な運命もあって日本人選手の海外移籍第1号が幻に終わった逸話を、生前の釜本さんに行った取材のなかからあらためて記したい。(ノンフィクションライター 藤江直人)

メキシコ五輪で銅メダル
得点王に輝いた不世出のストライカー

 実現していれば、間違いなく日本サッカー界の歴史が変わっていただろう。8月10日に肺炎のために大阪府内の病院で、81歳で死去した不世出のストライカー、釜本邦茂さんが数々の伝説を打ち立てた現役時代を振り返っていくと、大きなターニングポイントを迎えかけた時期にたどりつく。

 日本代表が3位に入り、五輪史上で唯一のメダルとなる銅を獲得した1968年のメキシコ大会。開催国メキシコ代表との3位決定戦で決めた2ゴールを含めて、日本のエースストライカーとして7ゴールをマークして大会得点王に輝いた釜本さんは、当然のように世界から注目される存在となった。

 帰国後の釜本さんのもとには、西ドイツ(当時)とフランス、ウルグアイ、そしてメキシコと4つのクラブから直筆の手紙、いわゆる移籍のオファーが届いた。そのなかでもメキシコ五輪前に短期留学し、天賦の才を大きく開花させた縁のある西ドイツ行きへ、誰よりも釜本さん本人が乗り気だったという。