「同和のドン」が暴力団と“相互不可侵”実現した理由、背景に大物組長との交友写真はイメージです Photo:PIXTA

同和問題という日本の宿痾(しゅくあ)に対して、「表」と「裏」の両面から立ち向かい、自民党系同和団体のトップとなった上田藤兵衞。「同和のドン」が、暴力団と全国自由同和会の「相互不可侵」を実現した背景には、山口組の5代目組長となる渡辺芳則との親交があった――。本稿は、伊藤博敏『同和のドン 上田藤兵衞「人権」と「暴力」の戦後史』(講談社)の一部を抜粋・編集したものです。

上田藤兵衞を認めた
山口組若頭と「山一抗争」

 上田が、新団体・全国自由同和会を暴力団と「相互不可侵」の関係にしようと考え、実際にそうスタートさせることができたのは、山口組若頭という日本最大の暴力団でナンバー2の要職にある渡辺芳則が、「お前はその道(同和運動)で頑張れよ」と認めていたことが大きい。ただ、上田が団体結成に動いていた1986年前後、渡辺自身は山口組分裂で神経をすり減らす抗争の最中にいた。

’81年7月、田岡一雄3代目が亡くなり、4代目が確実視されていた山本健一が、82年2月に亡くなると、後継者選びは混迷を極めた。

 組長代行となった山本広が最有力とされていたが、田岡の妻・フミ子の強い意向もあり、’84年7月、若頭だった竹中正久が4代目を継承した。その決定に不満を持った山本広が、山口組を離れ一和会を結成した。その時点で、渡辺は2代目山健組組長を襲名し、山口組若頭補佐に抜擢されていた。

 山口組は、一和会との間で「山一抗争」と呼ばれる戦闘状態に入っていく。当初、山菱の代紋を持つ山口組の方が攻勢だった。それを覆したのが、’85年1月の一和会暗殺部隊による竹中4代目襲撃事件である。竹中、中山勝正若頭、秘書役の南力(つとむ)の3人が射殺された。

 山口組は、翌月の直系組長会で、舎弟頭の中西一男を組長代行、渡辺を若頭とする体制を組み、一挙に反撃に出た。2人のトップを殺害された山口組の戦闘力は高く、一和会は防戦一方。切り崩されて構成員は激減し、関東の稲川会・石井進(隆匡)会長、京都の会津小鉄会・高山登久太郎会長らの仲介もあって、’87年2月、抗争はいったん終結した。

山口組5代目側近が語る
上田と渡辺の関係性

 抗争を終え、中西組長代行との組長レースに勝った渡辺は、’89年4月、定例会で5代目山口組の組長となる。神戸刑務所で上田と懲役刑を務めていた81年の時点では、三次団体健竜会会長でまだ直参でもなかった。それから8年で構成員2万1000人のトップにのぼり詰めた。「実績」と「努力」もあるが、上層部が次々に病気や抗争でいなくなったという「運」も作用した。

 上田にとっても、「同和運動で男になれ」と、認知してくれた渡辺が日本の暴力団のトップになったのは「運」だろう。山口組幹部の「上田さんはウチの組長が昵懇(じっこん)にしている人」という言葉で、退かされる組織が幾つもあったという。では、渡辺にとって上田藤兵衞とはどんな人物なのか。