ロンドン在住の経済小説家・黒木亮氏(以下敬称略)。バブル期に邦銀金融マンとしてヨーロッパや中東を駆け回り、1988年から30年以上英国で暮らす黒木は、海の向こうから日本の「失われた30年」を見つめてきた。特にこの3年はコロナ禍という世界共通の課題があり、どうしても英国と日本を比較してしまうと話す。今の日本は先進国の中では二等国、と厳しい評価を下す黒木が、祖国に向けるまなざしとは……。(コラムニスト 河崎 環)
大手銀行で国際金融を担当、
30歳でロンドンへ赴任
大学時代はランナーとして箱根駅伝に2回出場、卒業後は日系バンカーを経て作家へ。2000年『トップ・レフト』でデビュー以来、国際金融市場での経験を生かしたリアリティーある作風で熱狂的なファンを持つ経済小説の名手・黒木亮は、自身の“前史”を明かす新刊『メイク・バンカブル!』を手に、新人バンカー時代を振り返った。
「ロンドンに赴任したのは30歳、1988年のことです。新卒で大手銀行へ入行し、カイロ・アメリカン大学への留学から帰国してからも国内支店の営業を経験したけれど、ずっと国際金融畑への憧れがあった。人事部への直談判でもぎ取った金融街・シティでのキャリアは6年。中東とアフリカを担当し、シンジケートローン(国際協調融資)案件をたくさんこなしましたね」
シンジケートローンとは、複数の金融機関が協調融資団を組成し、各金融機関が共通の融資契約書に基づき同一条件で融資を行う、大規模な資金調達の手法だ。
中東とアフリカを任されたのは、黒木がカイロ・アメリカン大学で1年10カ月の留学生活を送り、中東研究の修士号を手にしていたことにもよる。
「僕が銀行に入った1980年っていうのは、オイルマネーが国際金融市場を席巻していた。だから中東関係をやれば一生食いっぱぐれがないかなというのもあったし、ダイナミックにいろんなことが動いていて、面白かったんです。それから、ミミズののたくったようなアラビア文字を読めたら素晴らしいなと、好奇心的な興味があったんですよね。そう真面目に考えて志望したんだけど、当時はやっぱり変わったヤツだと思われたようです(笑)」
紳士然とした黒木はそう言ってほほ笑んだ。