「自己責任」という言葉が
孤独死、無縁死を増やしている

 住居に着くと、駐車場に警察の車が止まっていました。住居は、しんと静まりかえっていました。

 検死の警官から、「遺体は警察がいったん引き取って、地方自治体に引き継ぐ。死因はおそらく心筋梗塞だろう」などと聞かされ、Aさんの財布(所持金千円ほど)と携帯電話を持って引き揚げて行きました。

 やっと昼過ぎに、Aさんの母親と電話がつながりました。母親は「(子どもの早い死が)残念です。こちらに伺いたいですが、移動できません」とのことでした。

 私の元には、AさんがくれたCDだけが残りました。

 思うように体が動かないのを「ぶざまで」と言い、手を貸すのを申し訳なさそうにしていたAさん。家族用の大きな冷蔵庫を「元気だったら階段でも持って上がれるのに」と言っていたAさんの姿が思い出されます。

「もっと強引にでも、入院してもらえばよかったかもしれない」

「こちらに来てもらうべきではなかったのかもしれない」

 そう思うたびに、自責と後悔の念が堪えません。

「Aさんの死を知ってもらいたい」

「浮かばれるなら…」

 と思い、私はレポートを書き始めました。

 しかし、それは、私の言い訳、自己満足かもしれません。

 Aさんが、なぜ東京で生活保護の申請をしなかったのか?なぜ入院や施設への入所を嫌がったのか?などの疑問は、いまとなってはわかりません。

 ただ、私を含めて、少なくとも私の周囲には、

「人に迷惑をかけたくない」

「負担になりたくない」

 と口にする人や、窓口での手続きに抵抗を感じる人、人付き合いが苦手で集団生活を避ける人がいます。Aさんも、そうだったのかもしれません。