ビッグブラザーの思惑に反して賢い市民であろうと思ったら、多くの語彙と表現を手に入れる必要がある――つまり、たくさんの本を読む必要があるのです。

 考えるとはどういうことか

「我思う、故に我あり」。

 17世紀を生きた哲学者、ルネ・デカルトの著作『方法序説』にある言葉です。

 デカルトは、真理を追究したいと強く望んだ人でした。そのために、すべてを徹底的に疑った。疑っても疑っても疑えないものがあるのなら、きっとそれこそが真理だろうと考えたのです。そして最終的に、彼はこう結論づけます。

「自分の周りにある物体の存在も、自身の肉体の存在すらも、疑うことはできる。しかし、こうして思考している『わたし』がここにいること、それだけは疑うことができない。この考えているわたしこそが、たしかに存在しているものなのだ」

 つまり、「疑ったり考えたりしているこの自分だけはホンモノだ。真に存在しているものと言える。そうでなければ疑う(考える)ことさえできないはずだ」というわけです。

 この「我思う、故に我あり」をひっくり返してみると、「我思わず、故に我なし」──「考えない人は、存在しないも同然だ」ということになります(僕もそう思います)。

 自分で考えない人間は、プログラムされたままに動くロボットと変わりません。僕はみなさんに人間であってほしいし、そのためにも考える人であってほしいのです。

 しかし、ここで大きな問題があります。

「考える」ための方法論を教えてもらっていない

 おそらく多くのひとが、家庭や学校で「よく考えなさい」「もっと頭を使って!」と言われてここまで育ってきたと思います。しかし、そもそも「考える」とはどうすることなのか、本質や方法論は教えてもらっていない場合が多い。

 つまり、考えるとはどうすることなのかよくわからないまま、考えることを強いられてきた。それぞれが、我流でなんとかやってきた。

 だから、人によってその質にバラつきが出てしまっているのです。

 では、どうすれば「ちゃんと考えている」と言えるのでしょうか?

「考える」とは、まず問いを持つことからはじまります。「ほんとうにそうだろうか?」と疑い、答えを求めていくのです。次の3つのステップはあらゆる場面で使えます。

1 目の前にある違和感を見逃さない
2 疑ったルールや事象に対して、「なぜ」「どうすればいいか」を考える
3 おかしいと思ったら声を挙げ、説明する

 問いを立てる意識は、多様性のある社会では不可欠です。

 狭い社会やコミュニティ、近い価値観の人が集まる集団では多くの人にとって「心地良いルール」が適用されてもそこまで問題にはなりませんが、多様性のある場ではそうはいきません。ひとつひとつのルールに合理性や納得できる理由がなければ、不幸になる人が増えてしまいます。

 与えられたルールや条件を鵜呑みにせず、「どうしてこの条件が必要なんだろう?」「もっといいルールにできないか?」と考える。

 おかしいと思ったら、ただガマンするでも、ただ破るでもなく、変えていく。

 そして相手の「声」を無視したり頭ごなしに否定しないことが、これからの時代により求められるスタンスです。