ネットで陰謀論やフェイクニュースに関する話題は少なくない。いや、多い。見ない日はないと思えるほど多い。誰もが「よくないもの」だとわかっているのに、なぜ一向になくならないのか。『ぼくらは嘘でつながっている。』という本を書いた作家の浅生鴨氏は、元NHK制作局のディレクターであり、報道に携わっていた。ニュースの現場にいた経験から「陰謀論に騙される人が消えない理由」を明かす。(構成:編集部/今野良介 初出:2022年9月14日)

頭のいい人が「陰謀論」にハマる理由を元NHK制作局のディレクターが明かす【書籍オンライン編集部セレクション】浅生鴨氏

この二十年ほど、いや、ほんの十年ほどの間に、僕たちの周りには嘘が急激に増えてきたように多くの人が感じているだろう。

スマホで撮った写真を加工して少し「盛る」どころではない。フェイクニュースと呼ばれる怪しげな情報が溢れ、大きな事故や事件があればSNSにはデマが飛び交い、多すぎる言葉と少なすぎる説明が次々に誤解を生み出し続けている。

国のトップや政府までもが堂々と嘘をつき、公文書を改竄し、各種統計を操作し、しかもそれらを指摘されて恥じることがない。嘘だとわかっていながらも、それらを支持する人がいて、異を唱える者に対しては彼/彼女らこそが陰謀論に侵されていると反論する。

それにしても、なぜ、フェイクニュースや陰謀論はなくならないのだろうか?

僕が以前NHKの制作局でディレクターをしていた経験から、その理由を書いていこうと思う。

じつは、テレビニュースにも嘘は紛れ込む

その大きな理由の一つは、放送には物理的な制限がある点だ。どれだけチェック体制を整え、嘘がないように、間違いがないようにと客観的な事実を集めても、放送されるのはやっぱり何らかの形で加工された「事実」である。

現実に起きたことをそっくりそのまま電波に乗せることは物理的に不可能だから、番組をつくるときには膨大な情報の中から不必要なノイズを取り除き、届けるべき要素を絞るよりほかない。無限にある事実の断片からどの断片を取り上げるのか、あるいはカメラをどこに向けて置き、いつ撮影するのか、誰に話を聞くのかといった選択の一つひとつにも、やはり創り手の主観は紛れ込んでくるわけで、そうやって情報量を減らしていく段階で現実は圧縮され、ありのままの現実とは異なるものになる。

つまりこの段階で嘘になる。

それでは、ビデオカメラで撮影した映像や録音された音はどうか。たしかにそうした機械は人間とは違って、自分の見たいものや自分の聞きたいものに要素を絞って記録しているわけではない。

それでも、カメラをどの方向に向けるのか、マイクをどの位置に置くのかで、記録される内容は変わってくる。映像を撮っているカメラの後ろ側でいったい何があったのかはわからない。たいていの場合はカメラマンが立っているわけだが、そこからカメラマンの存在が消されている時点で、やはり嘘が混ざっているのだ。

じゃあ、三百六十度すべての方向にカメラを向けて、いま起きているできごとを完全に記録すれば、それは現実の記録になるだろうか。ちなみに最近の高性能カメラは一秒間に六十コマで撮影しているので、厳密に言えば六十分の一秒以下で起きた現象は捉えられないのだが、この際そこは考えから外しておく。とにかくそうすれば、現実の記録になるかもしれない。

けれども僕たちには、その映像をそのまま見る能力がない。たとえ現実をそのまま記録できたとしても、今度はそれを受け入れることができないのだ。

ノイズを取り除き、必要なものだけを集めてニュースはつくられている。撮影しているカメラマンや、指示を出しているディレクターは画面に映らない。その意味でニュースはありのままの現実世界を伝えているわけではない。必ずそこには嘘が混ざり込んでしまうのだ。

しかも僕たちの脳は、事実そのものよりも、それをコンパクトに圧縮した嘘のほうが受け取りやすい。情報が少ないのだからあたりまえだ。

こうして僕たちはニュースを事実として受け取り、自分の中で真実に変えていく。

だからといってニュース番組が信用できないわけではない。できごとを伝えるために必要な要素は過不足なく揃っているから、受け取る側としても困らないし、膨大な現実を何の加工もせずにそのままぶつけられるよりも、ずっと楽に把握できる。

ただし、それは現実そのものではない、つまり嘘なのだと知っておくことはとても重要だ。

陰謀論は「離乳食」である

フェイクニュースや陰謀論があとを絶たないのも同じ理由だ。

何か大きなできごとが起こったときに、その複雑な事実から必要なものを選び出すのは、僕たちにとってなかなか骨の折れる作業だ。フェイクニュースや陰謀論は、それらをわかりやすくすっきりとした要素にまとめてくれている。理解を拒絶する頭に与えられる離乳食のようなものだ。食べやすいから、つい口にしてしまう。

ただし、その多くは事実から抽出した要素ですらなく、どこか別の場所から持ってきた要素を組み合わせて合成した加工食に過ぎない。より大きな嘘なのだとわかって付き合わないと、やがて自分の中の物語は、事実の欠片さえない、完全な嘘だけでつくられたものになってしまうだろう。

さらにやっかいなのは、人は一度自分が本気で信じた嘘はなかなか捨てられない点である。それまで自分がつくってきた世界を否定するのは、誰にだってとても辛いことだ。

特に失敗体験の少ない人たち、頭がよかったり、社会的に成功していると言われるような人たちにとっては、自分自身を否定するくらいなら、むしろさらに現実を都合良く改竄して自分の世界を強化していくほうが心地いいのである。そういう人たちは、どれほど客観的な事実を見せられても上手く改竄してしまうので、頭がよかったり、社会的に成功していると言われるような人たちほど、一度フェイクニュースや陰謀論の罠にはまってしまえば、そこから抜け出すのはとても難しくなるのである。

妙な誤解を招かないように、いちおうここで言いわけをしておきますけどね、これまで僕の関わってきた報道系の番組にデタラメやフィクションが紛れ込んだことはありません。あくまでも誰もが客観的に検証できる事実だけをベースに番組はつくられています。ただ、僕たちが何かを選ぶときには、必ず他の何かを切り捨てています。何かを見るときには、別の何かを見ていません。すべては把握できないのです。それをここではあえて「嘘」と呼んでいます。それを嘘だと捉えるかどうかは人それぞれにお任せしますが、完全な客観など存在しないと僕は思っています。

だから「私は公平に偏りなくものを見ています」「私は客観的です。中立です」と断言する人はあまり信用できません。思い込みや勘違いも含めて、常に自分は嘘に塗れているのだ、ものごとを完全に把握することなどできないのだと考える謙虚さは忘れずに保ち続けたいと思います。

ここで大切なのは、いつもすべてを嘘だと疑い続けるだけでなく、ものごとの捉え方や政治的なスタンスなども含めて、自分はいったいどういう嘘が好みなのか、どういう嘘を受け入れやすいのかを知っておくことです。

フェイクニュースや陰謀論にも傾向があります。どうせ公平なんてありえないのですから、自分の癖や好みを知っておくだけで、世界を覆う危険な嘘から、ある程度は身を守れるようになるはずです。(了)