『独学大全──絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』が、20万部を突破。分厚い788ページ、価格は税込3000円超、著者は正体を明かしていない「読書猿」……発売直後は多くの書店で完売が続出するという、異例づくしのヒットとなった。なぜ、本書はこれほど多くの人をひきつけているのか。この本を推してくれたキーパーソンへのインタビューで、その裏側に迫る。
今回は特別編として、日本最高峰の書評ブロガーDain氏と『週刊ダイヤモンド』特別付録「大人のためのBESTマンガ」を監修した読書猿氏の「マンガ対談」が実現。『独学大全』とあわせて読みたいマンガについて、縦横無尽に語ってもらった。(取材・構成/谷古宇浩司)(初出:2021年8月7日)
「スゴマンガリスト」には学者ものが多い
読書猿 僕たちが作ったオススメマンガのリストには「学者もの」「研究者もの」が多いことに気づきました。たとえば、『妖怪ハンター』(注1)や『MASTERキートン』(注2)。『妖怪ハンター』の稗田礼二郎と『MASTERキートン』の平賀=キートン・太一は2人とも考古学者です。
考古学、考古学者は昔からマンガによく出てきます。例えば、手塚治虫の『三つ目がとおる』(注3)もそう。主人公写楽保介の養父は医者なんだけど、考古学もやっている。
これは1970年代のオカルトブームの頃の発表された作品ですね。当時は伝奇ものやオカルトものに考古学がよく使われました。少女マンガだと『王家の紋章』(注4)が有名です。
その後、1980年代に考古学ブームがやって来て、キトラ古墳や吉野ヶ里遺跡が脚光を浴びました。サファリウェアを着た吉村作治さんがエジプトでピラミッドを作ったりして、考古学者という存在も少しずつポピュラーになっていったんですね。『妖怪ハンター』の主人公、稗田礼二郎は考古学者なんですが、普通「妖怪」と言ったら考古学者じゃなくて、民俗学者だと思うんですよ。
Dain 「妖怪学」「民俗学」「考古学」とそれぞれ違う学問なんですね。
読書猿 妖怪の性格付けや映像化は、江戸時代に黄表紙本や浮世絵などの「妖怪画」を通じて広まりました。黄表紙本や浮世絵も、木版画で印刷できるんで多くの人が手にとって見る、ポピュラーカルチャーの担い手、メディアです。
で、明治になってしばらく経つと、近代化の中で失われていったものに対する憧憬や郷愁も相まって、「やっぱり、近代以前って大事だよね」という揺り戻しの中で「民俗学」という取り組みがはじまります。柳田国男などの民俗学者が日本全国を歩き回り、人々の間に残る伝承を発掘していった。その中には、たとえば「そこの山は、ダイダラボッチが富士山を作っていた時にごろっと土がこぼれ落ちたもの」みたいな、科学的にはまったく正しくないんですが、代々受け継がれてきたものがある。こういうのを「昔の人は迷信っぽいね、わかっていないね」と言って切り捨てないで拾い上げていくと、その中に、どうにも説明できない不思議な事象を語り継いで、集団にとっての意味や由来をつくりあげているものがある。
妖怪についての伝承も、そういう「語り」として拾い上げられ、採集されていった。こうして妖怪ははじめて学問的な対象となったわけです。水木しげるなんかも、江戸の妖怪とともに、柳田たちが集めた伝承をよく研究してる。僕らが知る妖怪は、民俗学の子どもなんです。
民俗学では伝承の内容が真実かどうかは問いません。むしろ、ある伝承がその村や集落に伝わっているということ自体を、事実として貴ぶべきというアプローチを採ります。だからこそ、民話をしっかり採集していくことに意味があるんだと。妖怪なんてどう考えても科学的な存在じゃないし、近代的な世界観にそぐわない。だけど、それ(妖怪)を今も伝えている人がいるのは事実。だから尊重すべきであると。人々が語る事実としてはあるんだけど、妖怪が本当にいるかどうかには触れないでおこうというスタンスなんです。ざっくりいうと、妖怪は「語り」の中だけの存在で、せいぜい共同幻想のレベルにのみ実在する、ということになるんですが。
面白いのは、「語り」に結びついたものなので、妖怪は、その存在を伝える人たちが住むエリア、地域に結びついた、基本的に「地域限定」な存在なんです。たとえば、一反木綿は九州の方(鹿児島県肝属郡高山町)に伝わる妖怪だし(注5)、砂かけ婆は、柳田の友人で医学博士だった澤田四郎の「大和昔譚」(注6)に出てくる、奈良周辺の妖怪。水木しげるのマンガで全国的に知られるようになると、こういう地域性は忘れられていくんですが。
柳田国男はもう少し踏み込んだ説明をして、妖怪を地域性からいくらか解放します。たとえば河童伝承は日本のあちこちにありますよね。これは、もともとは水の神、水神信仰としてあったものが崩れて、いま、僕たちが知っている河童のああいう造形と典型的なストーリーが形作られるようになったんだと、説明する。つまり、もともとは神様として扱われていたものが人から人に伝わっていく過程で変形され、「河童」という妖怪になった。山姥(やまうば)も同じ。元々は山の神様。民俗学では「もともとあった日本固有の信仰、文化を根っこにしているのが妖怪だ」というフレーミングをするわけです。
なぜ『MASTERキートン』の主人公は「考古学者」なのか?
読書猿 で、ここで「考古学」なんですよね。民俗学は「真実」じゃなくて「事実」を扱う。逆に、考古学は逆に「事実」じゃなくて「真実」を扱う。
Dain 事実と真実ですか。
読書猿 事実と真実を日常語の範囲で考えるとわかりにくいけど、ここで補助線として法律における「時効」の話をします。一言でいうと、時効は真実に対して事実を優先させる仕組みなんです。
時効取得(じこうしゅとく)といって、「所有の意思をもって平穏かつ公然と他人の物を一定期間占有した場合」、10年や20年経つと土地や建物などを取得できる制度(民法162条)があるんですが、例えば土地があってそこに建物を建てた人が20年住んでいたら、住んでいたその人の持ち物になったりする。もちろん、本当は別に持ち主がいる。登記簿でもそうなっている。それが真実です。でも事実としては20年実際に住んだ人がいる。その事実を前提に20年もの長い間、いろんな人の営みが積み重なっている。真実と事実がこんな風に長期に渡って食い違っている場合、やっぱり「真実が大事だ」として、事実の方を間違いだとして取り除いてしまっていいのか、という話がある。むしろ事実を優先した方がいいんじゃないか、と。法学的にいうと、長期間継続した事実状態は、いろんな契約だとか関係する法律関係を安定させるために法的に保護する必要がある、という議論ですね。
でもね、考古学には時効はないんです。語り継ぐ人がいようといまいと、今(現代)に何の影響を与えなくても、真実というものはある。そう考えないと考古学は成り立たない。
文字がなかった時代のことを知りたい場合、口頭伝承、口伝がなければ、現代の僕たちには当時の様子を知ることができません。でも、石や破片などの痕跡は残っているかもしれない。それらの痕跡をもとに「真実」を再構築しようというのが考古学のアプローチです。
諸星大二郎が『妖怪ハンター』でやっているのは、あるいは主人公の稗田礼二郎が対峙しなきゃならない問題は、ただ伝承されている(共同幻想として信じている人たちがいる)というレベルの「妖怪」や「怪異」ではない。目の前で物体は破壊するし人は殺す、現前している「妖怪」であり「怪異」です。だから稗田は民俗学者ではなく、考古学者じゃないといけなかった。
稗田礼二郎は多くのエピソードで名状しがたい存在と出会います。物語の舞台は古代の人たちが構築した古墳だったり、土地の人たちから「神聖な場所」と指定される場だったりします。そして、実はそういう場所には、かつて実際にものを破壊したり人を殺した「怪異」が封じられていて、何かの拍子に、そいつが現在にも現れて、また破壊や殺戮を行う。信じる信じないの話じゃないんです。また、その「怪異」は人智を超えてるんで、通常の手段では対抗できない。そいつを封じていた太古の封印を解明して、再封印するしかない。こういう真に実在するものを取り扱うのは、考古学者じゃないとできない。「語り」に依拠する民俗学者では違うという話になる。
バラバラの手がかりをつなぎ合わせて、語られないものを扱うのが考古学だといえます。で、この流れで紹介しなきゃならないのが、ベスト・オブ・考古学マンガである『MASTERキートン』です。
平賀=キートン・太一はなぜ、考古学者じゃないといけなかったか。キートンにとって考古学は、語りになっていないような「知」を探る仕事です。キートンはロイズから依頼を受けたりする保険調査員でもありますよね。
ある人がいつも怪我をする(そのたびに保険金を請求する)。どうしてそんなに頻繁に怪我をするのか、真実を調べて欲しいとロイズに依頼される。真実を突き止めるために現場を訪れ、事故なり事件の痕跡を調べる。すると、何かが残っていることがある。この物語に出てくる問題を抱えている人は大抵「語らない人」なんです。何か言えない秘密を持っていたり、ある理由から何かを言わないと固く決意している。これに対して、キートンにはものが持っている意味やメッセージを読み取る知識や力があります。そうして、語らぬ「もの」の声を聞くことで、困っている人たちが語らないことが明らかになり、問題が解決されたり、諍いが和解に導かれたりする。
つまり考古学や保険調査はどちらも「もの」から知識を引き出す仕事として描かれている。「もの」だけではなく、自身は語らないものとして、動物が出てくる話もある。犬の振る舞いを手掛かりに事件を解決するエピソードもあります。遺跡や遺物、動物といった語らない存在から「知」を引き出す営みとして『MASTERキートン』では考古学が描かれています。
Dain 人に語らせる民俗学、ものの語りを読み解く考古学ですね。
キートンは、単純に遺跡や遺物を手掛かりに当時を想像する、という意味だけでなく、「もの」そのものから知識を引き出して利用する、ということもいえますよね。
たとえば、身を守る術をもたずに倉庫に追い詰められたとき、キートンは倉庫にあった小麦粉を飛散させ、粉塵爆弾を起こします。あるいは、ブルドーザーが向かってきたとき、石畳の上に石鹸水を撒いて、キャタピラーを空転させます(たしかキートンのアイデアでおばちゃんがやったはず)。そのときそのときの道具やものを利用して危機を脱出する、というのも『MASTERキートン』の魅力でした。それは、キートンがその「もの」がなんであるかを見抜いているからこそ、だと思いました。
読書猿 確かにそうですね。彼のサバイバル術は単にSAS仕込みであるだけじゃなく、完全にもうひとつの考古学のなんですよ。
この意味では、考古学は、文献資料がない歴史以前の遠い過去だけを対象とするものに限られません。たとえば、「戦場考古学」というサブ分野では、古戦場で弾丸や薬莢を丁寧に拾い集めて両方の陣営毎に分類して、実際の戦力や火力、戦闘地域の推定なんかを再構成したりします。有名な例だと、司令官の未亡人による宣伝活動によって「インディアン側による奇襲、虐殺」とされてきた1876年のリトルビッグホーンの戦いがあります。司令官の名前をとって「カスターの古戦場」として国立記念戦場となっていた現地を考古学が分析することで、この戦いが、アメリカで長く国民的英雄とあがめられていたカスター司令官が功を焦って行った先住民への攻撃であり、軍事的な失敗であることを明らかにし、現代史に大きな影響を与えました。
最大級のスケール! まだまだある「知」を扱ったマンガ
読書猿 話を広げると、『MASTERキートン』って、当時はまだあまりなかった、知識や学ぶことの大切さを茶化さず、真正面から取り上げたマンガでした。例えば第3巻の『屋根の下の巴里』には、「鉄の睾丸」と呼ばれた教授がドイツ軍の爆撃にもめげず、悠然と講義を続けたというエピソードが出てきます。
同時期に連載を開始した『天才柳沢教授の生活』も、最初は柳沢教授の「変人ぶり」に焦点をあてたコメディでしたが、やがて「知」とは何か、「知る」とは何かというテーマにシフトしていく。この流れで紹介したいのが、連載中の『圕の大魔術師(としょかんのだいまじゅつし)』というマンガです。『圕の大魔術師』は本読みの魂を狙い撃つようなマンガ。この作者はものすごい画力の持ち主です。ブルーモスクのような建物とか、民族ごとに異なる衣装の描写がすごい。図書館が世界を支えるような独特の世界観も魅力的。ある意味、アラビア人文学みたいな作品ですね。
Dain アラビア人文学! どんな内容なのですか?
読書猿 なぜアラビアっぽいと思ったかと言うと、この作品の世界では、女性は図書館の司書にはなれても、学者にはなれないからです。「知」を求める優秀な女性は図書館に行くしかない。主人公は男性。でも、司書になりたい。だから、(男性なのに)なぜ司書になりたいのか? と問われる。「(男だって)司書になってもいいでしょ!」というやりとりがあったりする。そういう世界観です。この世界では、図書館はどうも、知の発展だけでなく、ある種の知を制限して世界を安定させる役割を担っているらしい。
図書館を扱った中でも最大級にスケールが大きな作品です。話の進むペースがゆったりしているので、完結するまで連載が終わらないか心配になるくらいですが。
Dain 僕からのおすすめだと、『草子ブックガイド』と『バーナード嬢曰く。』も「本」や「知」にまつわる作品ですね。『草子ブックガイド』は読書猿さんの紹介で出会った作品です。
読書猿 「すべてを知り、理解した賢者」のレビューよりも、世界の不実さと無関心さに翻弄され、人生から振り落とされないように必死でしがみつかなくてはならないような、そして、読むことがそのまま生きることであるような、小さな読み手(主人公)の感想が我々の胸を打ちます。『モーニング』での連載は終了しましたが、新たな場所でぜひ、連載を再開して欲しい作品ですね。
Dain 僕は、草子のお父さんのダメっぷりに何度憤ったことか。お父さんの弱さなのは分かるけれど、まるで成長していない。絵描きになるという夢を諦めきれず、その日暮らしを続けているんですが、第1話で、草子が大切にしていた本棚の本を全部売ってしまうんですよ、ここは本好きの1人として許せん! と思いました。
この作品では、草子が手にした本が問題を解決するのかというと、そうでもないんですよね。普通の予定調和だと、「問題→アイテム/キャラ→解決」型になるけれど、この作品ではならない。少しだけ、分かり合える縁としての本、という位置づけが好きです。
読書猿 一方、本を読む人と読めない人のダメなところを煮しめたような女の子が『バーナード嬢曰く』の主人公ですよね。途中から出てくる神林さんは(『戦闘妖精・雪風』の神林長平が由来ですよ)、とても熱心なSFマニアで、同じ作品でも装幀が変わったり、翻訳が新しくなると買ってしまったりします。実に暑苦しく作品について語ったあと、いや先入観にとらわれず読んでほしいと、その暑さを反省したり(笑)。読書好きなら共感できるところがあると思います。
書評ブログ「わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる」管理人
ブログのコンセプトは「その本が面白いかどうか、読んでみないと分かりません。しかし、気になる本をぜんぶ読んでいる時間もありません。だから、(私は)私が惹きつけられる人がすすめる本を読みます」。2020年4月30日(図書館の日)に『わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる』(技術評論社)を上梓。