「ハロウィンジャンボ宝くじ」のシーズンが終わり、11月21日から「年末ジャンボ宝くじ」が発売される。1等前後賞合わせて10億円の当せん金を手にしようと、売り場に長蛇の列ができるのはもはや風物詩だ。実はこうした「くじ」は江戸時代からあった。庶民が一獲千金の夢を託した「富くじ」である。人々の「一発当てたい」という欲は今も昔も同じで、富くじは大ブームを巻き起こした。だが弊害もあり、やがて衰退する羽目に…。その栄枯盛衰を詳しく解説する。(歴史ライター・編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)
当せん金額は「現在の1億2000万円」
江戸時代にあった「富くじ」とは?
一獲千金を夢見て、宝くじを購入した経験がある人は多いだろう。だが、その歴史は意外と知られていない。本稿では“宝くじの先祖”といえる「富くじ」について解説していく。
富くじは江戸時代、全国の神社仏閣が販売していた宝くじだ。
1624(寛永元)年、摂津国(大阪府と兵庫県の一部)の箕面山瀧安寺(みのおさん・りゅうあんじ)発祥といわれている。
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最初は正月の参詣客が自分の名前を書いた木札を箱に入れ、1月7日に僧が錐(きり)で突いて3人の当せん者を選び、御守を授けるものだった(宝くじ公式サイトより/なお1575[天正3]年説もあり)。錐で木札を突くことから「富突」(とみつき)とも呼ばれた。
これを起源として日本中の寺社が販売するようになったのだが、販売といっても名目は勧進、つまり老朽化した本殿や本堂の修復費などを、奉納してもらうのが目的だった。
だが、単に勧進では、大衆に呼びかけても応じる人は限られている。そこで、勧進した者の中からくじ引きで当せん金を渡すという、見返りを思いついたのである。
江戸で富くじが正式に行われたのは元禄年間(1688~1704)だった。徳川5代将軍・綱吉の時代、幕府は谷中(現在の東京都台東区)にある感応寺の富くじを公式に認めた。公儀公認であることから「御免富」(ごめんとみ)ともいった。
公認した理由は、すでにこの頃から幕府の財政が悪化し始めており、寺社から依頼された修復の拝領金(援助)を出せなくなっていたため、自力で資金を集めてもらう他ないという思惑があったらしい。
そんな富くじの仕組みはどのようなものだったのか。また、熱狂的ブームを巻き起こしたにもかかわらず、富くじが終焉を迎えた理由とは。次ページ以降で詳しく解説する。