おみくじを結ぶ男性写真はイメージです Photo:PIXTA

自分がどう行動するかは、自分自身で決める。誰もがそう思い込んでいるが、じつは多くの人の脳はみずから考えることが嫌いだ。多方面の事象を経済学の視点で分析することで知られる慶應大教授によれば、有名な寺社の隆盛ぶりは、面倒くさがりの脳の機能を巧みに利用しているという。本稿は、中島隆信『お寺の行動経済学』(東洋経済新報社)の一部を抜粋・編集したものです。

自分自身で判断しているように
人間は思わされているだけ

 私たちは何か決断したり行動を起こしたりするとき、深く考えているように見えてじつはそうではない。祈りは、そうした面倒くさがり屋の脳の機能を巧みに利用することによって成立していることが多い。

 最近流行の“ナッジ”ということばをご存じだろうか。“突っつく”という意味で、人間が自由意思に基づいて行動しているように見えながらも、じつは外部からの働きかけによって操られていることをいう。

 有名な事例としては、アムステルダムのスキポール空港の男子トイレで、小便器の内側にハエの絵を描いたところ、利用者が無意識にその場所めがけて用を足すようになったことで清掃費が8割も削減されたというものがある。

 これは、「汚すな」と命令するのではなく、“的があればそこに当てたい”という人間の本能をうまく活用して利用者を誘導した“ナッジ”と解釈される。

 また、タバコのパッケージにその有害性を示す映像(ニコチンで真っ黒になった肺の写真など)をプリントするよう義務づけるというナッジは、タバコの消費を減らし国民の健康に効果がある一方で、消費者の選好を意図的に変更し、選択の自由を阻害するという批判もある。

 さて、ナッジは宗教活動の促進にも効果的である。寺社への参拝は、私たちの行動を変える“きっかけ”となる。

 たとえば、資格取得のための勉強を始めるべきか躊躇していた人が、たまたま神社ののぼり旗が目に入り、学業成就のお守りを買ったことで踏ん切りがつき、本格的に勉強に取り組むようになったり、なかなか禁煙できなかった人が、家族の勧めで健康祈願をしてお札をもらったことでタバコを止めることができたりするケースである。

 祈願をしたからといって神仏から勉強や禁煙を強制されるわけではないが、決断に向けて背中を押してくれたという意味で、こうした祈願はナッジと見なすことができるだろう。

 宗教活動におけるデフォルト・オプションの典型は、葬儀と法事だろう。親族が亡くなったとき、死者を悼む気持ちはあるにせよ、戒名授与、葬儀、初七日、四十九日、一周忌、三年忌等々の法要は行うのがデフォルトとなっている。そうした儀式の宗教的裏付けや“追善供養”の意味などをよく理解している人はほとんどいないのではないだろうか。

 厄除けもナッジの一種だろう。女性は30代、男性は40代に集中している。若さが失われ、ちょうど成人病を意識し始める頃だ。ある程度の年齢を重ねていけば病気にかかるし、不幸が訪れることもあるだろう。