病と闘う「知の巨人」佐藤優さんが、京大法学部出身、JR西日本に就職し駅員や車掌を経験したこともある異色の主治医・片岡浩史さんと語り尽くします。今回は、片岡さんのJR西日本時代の経験【前編】です。
※この記事は、佐藤優、片岡浩史『教養としての「病」』(集英社インターナショナル新書)から一部を抜粋・再編集したものです。
医者になろうと思ったきっかけ
佐藤優 先生は幹部候補生としてJR西日本に入社されたわけですが、JRでは幹部候補生は、みんな最初は現場に送られますよね。
片岡浩史 はい。まず駅員を1年やって、それから試験を受けて車掌になって、車掌を2年やりました。
佐藤 現場にいながら、自分がやりたい地域開発について考えることはありましたか。
片岡 入社してすぐに宅建(宅地建物取引士)の資格を取りました。しかしながら実は、入社式の訓示のときに「地域開発部門はなくなりました」と言われたんです。私は「御社に入ったら地域開発をしたいと思います」ということを面接のときに言って、「では将来は地域開発部門で活躍してください」と言われて採用されたわけです。だから「これは詐欺だ!」と思いましたね。でも、もうどうにもなりません。それが社会の厳しさを本格的に知った経験でした。
佐藤 なるほど。駅業務はどんなことが中心なんですか。
片岡 当時はまだ改札口が自動化されていなかったので、駅業務ではひたすら切符を取っていました。私が勤務していたのは岡山駅で、岡山駅は1日に10万人近い乗降があります。それを十数人の駅員でさばくのですから大変でした。
と言っても、当時は切符にはさみを入れることはもうなくなっていました。だから改札を通る人には切符に日付入りのスタンプを押して、改札を出る人からは切符を取っていました。そういうことを1日に何千回とくり返しながら「これは機械でもできる仕事をやっているな」と考えつつ、転職もまた考えつつ、という感じでしたね。そのときにはもう医者になることを考え出していました。
佐藤 1年目から。