札束で叩かれた話
佐藤 駅員から車掌になったあとは、どこの路線に乗ってたんですか。
片岡 車掌については「この路線」というのはありません。全部、どこでも乗ります。岡山駅はターミナル駅のような感じですから、路線がたくさんあります。広島から姫路から出雲まで行きますし、小さい路線もいくつかあって、そのすべてに乗っていました。
佐藤 何か強く印象に残っていることはありますか。
片岡 駅員のときの印象がやっぱり強烈でしたね。駅員の仕事は今で言うエッセンシャルワーカーの一つだと思いますが、本当に多種多様な、こんなにも幅広い人たちを相手にする職業は特殊だなと、まず思いました。深夜に駅のシャッターを閉めるときには、そこで寝ているホームレスの人に「移動してください」と声をかけますし、ヤクザが切符を出さずに改札口を通ってきたり、電車が止まったときに文句を言う人はたくさんいて、中には暴れる人までいました。クレームがすごく多い職種なので、社会の厳しさをもろに受けました。
佐藤 先生が就職した1990年代前半は、駅にクレーマーが出始めた頃ですよね。
片岡 クレーマーは結構いました。たとえば、駅の改札口で正規料金を払っていなかった人に数百円程度の差額をもらおうとしたら、いきなり100万円ぐらいの札束で「ボン!」と叩かれたことがあります。その人は札束を見せることで「俺は金持ちなんだ。この程度の小銭はいくらでも払えるんだ」と言いたかったのかもしれません。「だったら、さっさと差額を払ってください」と思うのですが、彼にとってはそうではないのでしょうね。私のような小僧っ子から「料金不足ですよ」と言われるのが不快だったのでしょう。
佐藤 だから札束を見せて、「お前とは格が違う」と言いたかったんでしょうね。
片岡 何かしらのプライドがあったんでしょうね。でも、そんな理屈は当時の私には分かりません。「この人の論理は何なんだ?」と、驚きしかありません。その人はどこかの社長さんなのかもしれませんね。たぶん部下はそれで言うことを聞くのでしょう。でも、それが外で通じるわけもありません。なのに、そういう論理を押しつけてくる人がいるということを初めて経験しました。
佐藤 普通に学生をやっていると、そういうふうに威張る大人、無理無体なことを言ってくる大人にはほとんど接しませんからね。
片岡 接客業のみなさんはいろいろと経験されているのだろうと思いますけど、私自身はビニールハウス培養と言いますか、ぬくぬくと育ってきましたから、「世の中はみんないい人しかいない」と思っていました。しかし、それはどうも違う、世の中には悪い人もいるんだ、ということを最初に知ったのがその出来事でした。お金を投げつける人もときどきいましたね。
佐藤 学校では「悪」を教えません。だから私は学生たちに、小説を読んだりノンフィクションを読んだりして、読書によって悪の代理体験することを勧めています。大人になってから悪に引っかかってしまわないために、若いうちに悪について本で知っておくことは重要です。
佐藤優、片岡浩史 著