イスラエルによる地上侵攻が始まり、ガザの惨状が日々伝えられることで、世界中でイスラエルに対する抗議行動が活発化している。テロの報復やテロリストの掃討の名目で無関係な市民を殺傷することは許されないが、その一方で、子どもや幼児を含む1400人あまりを虐殺し、240人もの人質をガザに拉致したことからも、ハマスがガザの市民に数千人、数万人の犠牲者が出ることがわかっていて今回のテロを計画したことは間違いない。ガザのひとびとは、パレスチナ問題に世界の目を向けるための道具として使われたのだ。
市民にどれほどの犠牲が出ても自身の「正義」を追求するハマスとはどのような組織なのだろうか。それを知る一助として、モサブ・ハッサン・ユーセフの『ハマスの息子』(青木偉作訳、幻冬舎)を紹介したい。
モサブは1978年にヨルダン川西岸のラマッラで、シェイク・ハッサン・ユーセフの長男として生まれた。父はイマーム(イスラームの宗教指導者)で、1986年にハマスが創設されたときの7人のメンバーの1人だった。
これが「ハマスの息子」の意味だが、モサブはイスラエルの諜報機関シン・ベット(イスラエル総保安庁)から「緑の王子(Green Prince)」というコードネームを与えられてもいた。緑はパレスチナ国旗の色で、「プリンス」の敬称は、モサブがシン・ベットによってハマスに潜入させられたスパイだったからだ。
民族主義者であるPLOとイスラーム原理主義のハマスやイスラム聖戦機構
モサブの子ども時代は、どのようにテロリストが生まれるかの典型的な物語だ。
父はイマームとしてモスクで説教をしながら、私立学校で宗教を教えるなどして家族を養った。モサブのあとには4人の弟と3人の妹が生まれた。
だがハッサン家の幸福な時代はモサブが9歳のときに終わった。87年12月、ガザ地区でイスラエル人のセールスマンが刺殺され、次いで交通事故でパレスチナ人4人が死亡した。これがイスラエル人による報復だとして暴動が発生、17歳の少年が火炎瓶を投げてイスラエル兵に射殺された。
これをきっかけにガザだけでなくヨルダン川西岸でも大規模な抗議行動が起こり、子どもたちがイスラエルの戦車に向かって石を投げ、その写真が世界中に配信された。この抗議行動は「(第一次)インティファーダ」と呼ばれ、ハマスは率先してこの暴動を煽った。
このときモサブもイスラエル人の入植者の車に投石し、捕まってIDF(イスラエル国防軍)の基地に連れて行かれた。日が暮れると解放されたものの、靴を取りあげられ、靴下だけで1マイル(約1.6キロメートル)を歩いて家に帰った。
次いで父が逮捕された。具体的な容疑はなにもなかったが、シン・ベットはハマスの幹部なら進行中の事件や計画を知っているはずだと決めつけたのだ。父は手錠をかけられ、天井から吊るされ、意識を失うまで電気ショックをかけられたが、沈黙を守り通した。これ以降、父はほとんどをイスラエルの刑務所で過ごすことになる。
89年末、ラマッラで3人のイスラエル人が刺殺されると、イスラエル軍は外出禁止令を出し、それに違反すると大人だけでなく子どもに対しても発砲するようになった。モサブの家は学校から4マイル(約6.4キロメートル)あったので、外出禁止の時間までに帰りつけるはずがなかった。そこで裏庭を這ったり、道の脇の茂みに隠れたりしながら、家から家へと伝ったのだが、同じようにした子どもの多くが撃たれて命を落とした。
その一方で、インティファーダが世界中の注目を浴びると、パレスチナ人の組織のあいだで勢力争いが始まった。当時、PLO(パレスチナ解放機構)には議長ヤセル・アラファトの母体であるファタハ以外に、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)とDFLP(パレスチナ解放民主戦線)の2つの有力組織があった。
それに加えて、ハマスやイスラム聖戦機構などのイスラーム原理主義の武装組織が反イスラエル闘争に加わり、PLOと対立した。民族主義者であるPLOが政治的に行動したのに対し、宗教原理主義者はイスラエルと交渉することだけでなく、その存在そのものを認めなかった。ハマスの創設者を父にもつモサブは、両者の関係をこう説明している。
PLOはハマスやイスラム聖戦機構とは異なり、生粋のイスラム組織ではない。民族主義者が構成するグループで、メンバー全員がイスラム教徒ではない。実際、彼らの多くは神を信じていなかった。まだ少年だった私の目にも、PLOは利己的で腐敗しているように見えた。その指導者たちは年に一度か二度、立場を鮮明にするようなテロ攻撃に人を、それも多くは十代の若者たちを送り出した。イスラエルと戦うための資金集めをするためだ。若きフェダイーン(パレスチナの戦士)は、怒りと憎しみの炎を燃え立たせるための燃料でしかない。それによってPLOの指導者たちの個人の銀行口座には、寄付金が途切れることなく流れ込むのだ。
「平和共存はハマスの終焉を意味する」
1年半の収監のあとモサブの父は釈放されるが、3カ月後にまた逮捕された。数カ月の拘束で釈放されたが、今度は釈放の夜に逮捕された。イスラエル側は、ハマスの宗教指導者を隔離することで武装闘争を抑え込もうとしたのだが、これは逆効果だとモサブはいう。その間に、より強硬な若手のメンバーが台頭してきたからだ。
ヨルダン川西岸よりさらに危険なのが、ガザ地区だった。エジプト(シナイ半島)に隣接するガザは、エジプトのイスラーム原理主義組織「ムスリム同胞団」の影響が強く、それに加えて、狭い難民キャンプに100万人以上が詰め込まれていた(現在は200万人に増えた)。
ガザに逃れた難民はイスラエル建国とその後の戦争で土地を奪われたひとたちだが、ガザでは二級市民と扱われていた。難民キャンプ建設のために土地を明け渡さなければならなかったガザ市民から「侵略者」と見なされたのだ。
そんなガザの難民キャンプから好戦的な武装グループが誕生し、ハマスは他の活動と分離するため、軍事部門としてイズディーン・アル=カッサム大隊を創設した。こうしてイスラエルは、投石ではなく銃をもつ者たちと敵対することになった。――ちなみに今回のテロは、ガザに潜伏するアル=カッサム大隊の司令官ムハンマド・デイフが計画したとされる。
1992年、アル=カッサムのメンバーがイスラエルの国境警備官を誘拐し、人質交換を拒絶されたことで斬殺した。これに対してイスラエルは1600人を超えるパレスチナ人を逮捕し、ハマス、イスラム聖戦機構、およびムスリム同胞団の幹部415人を密かに国外退去させた。
これによってモサブの父を含むハマス幹部は南レバノンの無人地帯に運ばれ、厳しい冬のさなかに、避難所も食料品もないまま放り出された。この国外追放は国際問題になり、「安全かつ速やかな帰還」を求める国連決議によって3カ月後に帰宅を許されたが、父はまた刑務所に送られた。
モサブは、これもまたイスラエルの判断ミスだという。レバノンに追放されているあいだ、ハマスと主要な政治的・軍事的イスラーム組織の幹部たちは自由に交流することができた。そればかりか、しばしばキャンプを抜け出して、レバノンを拠点とするシーア派の原理主義組織ヒズボラの指導者たちと接触し、かつてない関係をつくり上げた。
さらに、ハマスの幹部たちを国外に追放したことで、ヨルダン川西岸やガザにいるもっとも過激なメンバーがさらに力をもつようになった。そんななか、93年8月にビル・クリントン米大統領の仲介で、アラファトはイスラエル首相のイツハク・ラビンとオスロ合意を結び、「イスラエル国が平和と安全のうちに存在する権利」を認め、「テロや他の暴力行為の行使を放棄」することを約束し、ヨルダン川西岸とガザ地区の自治権を獲得した。
だがハマスは、この暫定自治を認めるわけにはいかなかった。「平和共存はハマスの終焉を意味する」からだ。