遺伝学でいま大きなパラダイム転換が起きている。ヒトのゲノムを安価かつ高速に解析するGWAS (ゲノムワイド関連解析)という驚異的なテクノロジーによって、膨大な遺伝子の組み合わせを得点化し、そのポリジェニックスコアから個人の“遺伝的な未来”を(かなり)高い確率で予測できるようになったのだ。
詳しくは日本における行動遺伝学の第一人者、安藤寿康氏と対談した『運は遺伝する 行動遺伝学が教える「成功法則」』(NHK出版新書)をお読みいただきたいが、あえて要約するならば、生まれた瞬間に、あるいは受精卵の段階で、その子の身体的・精神的な病気や障害の傾向だけでなく、大学を卒業するかどうかや成人後の所得、刑務所に入る可能性まで知ることができる未来が近づいている。
人間の行動形質のすべてが遺伝の影響を受ける
行動遺伝学の第一原則は「人間の行動形質はすべて、遺伝の影響を受ける」だが、ハンチントン病のようなまれな遺伝子疾患を除けば、あらゆる形質に複数の(それも何千、何万もの)遺伝子がかかわっている。これによって、一つひとつの遺伝子型のちがいから知能や性格を論じる「シングルジーン(候補遺伝子)」戦略は壁に突き当たった。
よく知られているものに、5-HTT(セロトニントランスポーター)遺伝子がある。神経症傾向には脳内の神経伝達物質セロトニンが関係し、5-HTT遺伝子のタイプにはより多くのセロトニンを運搬するL型と、セロトニンの運搬能力の低いS型がある。だがこれだけで、うつ病になりやすいかどうかが決まるわけではない。パーソナリティは、多数の遺伝子による「ポリジェニック」なものなのだ。
ところがGWASの登場で、わたしたちがみな、少しずつ異なるポリジェニックスコアをもっていることが“見える化”された。そこで研究者は、多くのサンプルを集め、このスコアと「表現型」との相関を調べることで、スコアから将来の「結果(アウトカム)」を予測しようとした。
社会科学でもっとも困難なのは、因果関係と相関関係を見きわめることだ。だが遺伝と表現型の相関では、この問題はあらかじめ解決されている。遺伝が原因で、表現型が結果であり、その逆はあり得ないからだ(がんに罹患したことで、がんの遺伝子が発現することはない)。
人間の行動形質のすべてが遺伝の影響を受けるということは、人生にかかわるあらゆることが、なんらかの意味で遺伝の表現型だということだ。そう考えれば、これがどれほどとてつもないことかわかるだろう。
GWASによるポリジェニックスコアの解析は緒についたばかりだが、今後、より多くのビッグデータが集まるほどその精度は上がっていく。20年後、もしかしたら10年後には、受精卵のポリジェニックスコアを調べて、どれを子宮に着床させるかを決めるようになったとしても不思議はない。
ポリジェニックスコアによって「遺伝ガチャ」の結果がどうなったのかを個別に診断できる
キャスリン・ペイジ・ハーデンの『遺伝と平等 人生の成り行きは変えられる』(青木薫訳、新潮社)は、2021年に刊行された“The Genetic Lottery; Why DNA Matters for Social Equality(遺伝の宝くじ DNAはなぜ社会の平等にとって重要か)”の待望の翻訳で、「もはや誰も遺伝の影響から目をそらすことはできない」現実をさまざまな角度から(リベラルの立場で)論じている。
ハーデンは、「行動遺伝学の三原則」を確立したエリック・タークハイマーの下で研究した気鋭の行動遺伝学者だ。ハーデンはこの本で、わたしたちの人生は“遺伝ガチャ”と“親ガチャ(社会ガチャ)”という偶然によってかなりの程度決まっていることを膨大な証拠によって説明すると同時に、だからこそその科学的事実を前提にして、公正な社会制度をどのようにつくっていくかを議論すべきだと主張する。
残念なのは、タークハイマーとならぶ行動遺伝学の泰斗であるロバート・プロミンが2019年に刊行した“Blueprint; How DNA Makes Us Who We Are(ブループリント DNAはどのようにしてわたしたちが何者であるかをつくるのか)”が翻訳されていないことだ。ハーデンの“The Genetic Lottery”はプロミンの“Blueprint”への(ある意味での)反論として書かれているため、両方を読まないと、ハーデンがなぜこのような主張をするのかをうまく理解できない。
プロミンはGWASが引き起こすであろう社会の大転換を“ゲノム革命”と呼ぶ。そこでは、さまざまなところでポリジェニックスコアが活用されるようになる。
行動遺伝学は一卵性双生児と二卵性双生児の比較などから、統計的な方法で遺伝や環境(共有環境と非共有環境)の影響を計測してきた。そのため、遺伝率はあくまでも集団に対するもので、個人への影響は(正確には)わからない。
ある疾患の遺伝率がかなり高く、両親のどちらかがその疾患をもっていたとしても、それだけでは子どもが発症するかどうかを知ることはできない。受精のとき、両親のそれぞれの性染色体がランダムに組み合わされるからだが、ポリジェニックスコアを使えば、この「遺伝ガチャ」の結果がどうなったのかを個別に診断できる。
これによって、「自分も親と同じ病気になるのではないか」という不安から解放されれば、人生の質を大きく上げるだろう。逆に「遺伝的にハイリスク」と診断されても、若いときから健康診断を受けたり、発症につながる食べ物や薬物を摂取するのをやめるなど、リスクに効果的に対処できるようになる。
ここまでは多くのひとが「科学の進歩」を歓迎するだろうが、プロミンはそこからさらに一歩進めて、企業が社員を採用するときにもポリジェニックスコアを使うべきだという。データがそろえば、学力や学歴以上に、仕事のパフォーマンスを遺伝的に予測できるようになる。このスコアは人種や国籍、性別、性的指向などの属性にいっさい影響を受けないのだから、これがもっとも公正な選抜方法になるというのだ。さて、あなたはこの提案に賛成するだろうか。