三田紀房の投資マンガ『インベスターZ』を題材に、経済コラムニストで元日経新聞編集委員の高井宏章が経済の仕組みをイチから解説する連載コラム「インベスターZで学ぶ経済教室」。第42回は、「成長より幸福」「みんなで貧しくなろう」と呼びかけるような脱成長論の弊害をズバッと指摘する。
「令和版・金銭忌避論」に違和感
道塾投資部の初代主将の財前龍五郎が創立メンバーに抜擢した下級生の原精三は投資を「卑しく下品な行為」ととらえ、抵抗感を示す。龍五郎は「貧乏こそ諸悪の根源!」「幸せは金でしか手に入れられない!」と金儲けこそが豊かな社会を作るのだと持論を展開する。
最低限の金銭は幸福の必要条件だが、十分条件ではない。お金があっても不幸な人はいくらでもいる。カネと幸せを直結する龍五郎の言説には、疑念を抱く人が多いだろう。もっとも江戸時代や明治の頃には、日本は絶対的な富の量が足りず、龍五郎の主張には正当性があった。世界にはそんな国はまだたくさんある。
では日本のような先進国ではどうだろうか。日本の消費が長年、いまひとつ盛り上がらないのは、所得が伸びないというブレーキとともに、そもそも欲しいものがそれほど見当たらないという事情もある。そんな飽食の時代状況と持続可能性への志向があいまって、経済成長不要論に支持が集まりやすくなっている。
私はそうした「令和版・金銭忌避論」とでも言える論調には強い違和感を持っている。一言でいえば、国内総生産(GDP)も成長しない、金儲け程度にすらつながらないようなインパクトに欠ける営みによって、多くの人が幸福や豊かさを手に入れられるとは思えないからだ。
社会にとってGDPの増大が、個人にとって預金残高の増加が究極の目標であるはずがない。そんなことは言うまでもない。
景気刺激や経済効果をやたら強調するイベントに少なからぬ人が疑問を抱くのは、それが一時的なGDPのかさ上げにしかならず、社会の豊かさの底上げにはつながらないからだろう。最近だと迷走の末に予算が膨張している大阪万博が好例だ。そうした無駄使いには私も反対する。
「富を密かに蔑む人から…」
だが、「もう十分豊かな社会になっているのだから、成長より幸福を求めるべきだ」といった成長不要論に私は与しない。我々はまだそれほど豊かではないし、社会には富の不足に起因する問題はいくらでもある。
そうした社会の課題を解決する発明やイノベーションが生まれるならば、当然のように経済は成長するだろうし、解決策を示した企業や個人は金銭的に大いに報われるだろう。社会全体に広くインパクトを与えるような変化ならGDPやお金は副次的についてくるのだ。
一部の成長不要論者は、成長より幸福を優先することに、道徳的な優位性を見出しているようにみえる。成長という呪いから解脱して「次のステージ」に進もうというロジックなのだろう。私の目にはこれは一種のマウンティングのように映る。
著名なエンジェル投資家の言葉を集めた好著『シリコンバレー最重要思想家ナヴァル・ラヴィカント』から引用して本稿を閉じよう。
「倫理的な富の創造は可能だと理解せよ。富を密かに蔑む人から富は逃げていく」「『地位のゲーム』をする人は無視せよ。彼らは『富の創造ゲーム』をする人を攻撃して地位を得ている」