日本の歴史を『古事記』の天孫降臨から始めるのは「歴史学」ではないが、戦前の日本はこれを学校で大真面目に教えていた。そしてイスラエルでは、いまでも旧約聖書の物語が“公式”の歴史観となっている。それによれば、「ユダヤ人の起源」は次のように説明される。

 紀元前2000年頃、テラと呼ばれる男が、その息子アブラハムと妻サラ、孫のロト(アブラハムの甥)を連れて当時の文化の中心バビロニアを去り、ユーフラテス川を越えて現在のトルコ南部にあたるハランにやってきた。彼らは「イヴリム(川向うから来た人々)」すなわち「ヘブライ人」と呼ばれた。

 父のテラが死んだあと、70歳代になったアブラハムは神ヤハウェ(エホバ)に出会い、神の戒律(男児は誕生から8日目にかならず割礼しなければならない)を守るならば子孫を神の「選民」として庇護するという契約を結び、カナンの地が約束された。

 紀元前16世紀、アブラハムのひ孫ヨセフが古代エジプトの副王にとりたてられ、飢餓に襲われたヘブライ人を呼び寄せた。だがエジプトで新しい王が権力を握ると、ヘブライ人は奴隷にされてしまう。

 それから400年後の紀元前12世紀、ヘブライ人はモーセというリーダーに率いられてエジプトを脱出した(「出エジプト」)。モーセはシナイ山で神の戒律を記した十戒の石版を受け取り、カナンを征服して「約束の地」に帰還した。

 その後、12支族による族長時代の「連邦制」を経て、カナンはダビデによって統一された。だがダビデの子で「知恵の王」とも称されたソロモンの死後、北のイスラエルと南のユダという2つの王国に分裂してしまう。

 イスラエル王国は紀元前722年にアッシリアに滅ぼされ、歴史から消滅した。これに対してユダ王国は、紀元前586年に新バビロニアのネブカドネザルに攻略されるまで持ちこたえ、住民たちがバビロニアに虜囚されてからも独自の一神教を保持しつづけた。このとき、「約束の地」から追放されたユダ王国の子孫が「ユダヤ人」になる。

 だが、これらは歴史的な事実なのか、それとも旧約聖書に書かれたたんなる神話なのか。この問いが重要な意味をもつのは、この「公的」な歴史観が、ユダヤ人が「約束の地」に自らの国家をもつシオニズムの根拠とされているからだ。

聖書における「出エジプト」はすべて創作なのか

 イスラエルの歴史学者シュロモー・サンドは『ユダヤ人の起源 歴史はどのように創作されたのか?』(高橋武智監訳、佐々木康之・木村高子訳、ちくま学芸文庫) で、イスラエルの公式史観は「つくり話」だと主張している。なお本書の原題は“The Invention of the Jewish People(ユダヤ人の発明)”だ。

 1946年にオーストリアでホロコースト生存者の家庭に生まれたサンドは、2歳で家族とともにイスラエルに移住した。 父親は共産主義者で、16歳で高校を退学になりラジオ修理の仕事をしていたサンドも共産主義に傾倒した。25歳で高校を卒業すると、1967年に勃発した6日間戦争に徴兵、激戦地に投入され生き延びた。

 戦後、サンドはパレスチナ人に対するイスラエルの抑圧的・差別的な対応を目にして「反シオニスト」になり、テルアビブ大学で歴史学の学士号を取得すると、「イスラエル人としてのすべてを捨てる」決意でフランスに移住、歴史学の博士号を取得してパリやカリフォルニア(UCバークレー)で教鞭をとった。1984年からはテルアビブ大学に戻って現代ヨーロッパ史を講じ、正教授を経て現在は同大学の名誉教授だ。

『ユダヤ人の起源』は2008年にヘブライ語版が出版され、イスラエルでベストセラーになるとともに、はげしい論争を巻き起こした。その後、英語、フランス語、ドイツ語、アラビア語などに翻訳されている。

 旧約聖書の「歴史」のなかで、アブラハムやその子孫については検証のしようがないため、最初の「歴史問題」はモーセの出エジプトになる。だが考古学資料も歴史文献も極端に少なく、エジプトの国境守備隊から宮廷に「ある部族」が通過中であるとの報告がなされたとか、ある寛大なファラオが中近東出身らしき部族に小麦とビールの糧食をふるまったという記述が見られるくらいだ。

 これに対してサンドは、エジプト王国では、個々の出来事をきわめて正確に記録に残す習慣があって、王国の土地に遊牧民の羊飼いが侵入したことまで知られているのに、ファラオの副王になったユダヤ人のことはもちろん、ユダヤ人の奴隷が集団で反乱を起こして脱出したことにまったく触れていないのはなぜなのか、と問う。

 聖書によれば、モーセは60万人の戦士と300万人近い民を40年間も砂漠のなかを引き連れた。これほどの規模で居住地を離れ、これほど長い期間、砂漠をさまようのはまったく不可能だという事実のほかに、このような出来事があれば、何らかの碑銘学的ないし考古学的な痕跡を残したにちがいないが、どこからも発見されていない。

 さらに大きな矛盾は、紀元前1220年のものとされる石碑に、ファラオ(ラメセス2世の後継者メルネプタ王)がシナイ半島の地カナンまで遠征して戦いに勝ち、「イスラエル」という名のものたちを破ったという記録があることだ。これが聖書以外に「イスラエル」の名が現われるはじめての記録だが、従来の解釈では出エジプトは紀元前12世紀(紀元前1100年代)で、この戦いのあとのことだ。

 しかしそうなると、モーセはエジプトから解放したユダヤの民を、エジプトが支配していたカナンの地に導いたことになる。モーセがカナンの地を征服する様子は『ヨシュア記』で描かれ、これは(サンドによれば)「史上初のジェノサイドの一つ」だが、このような大事件が起きたことは、この土地を統治していたエジプトの記録にはまったく残されていない。

 では逆に、エジプトのカナン攻略以前に、モーセがユダヤ人を率いて「約束の地」に帰還したとしたらどうだろう。これなら石碑とのつじつまは合うが、今度は、聖書にこの大事件の記載がいっさいないことを説明できなくなる。エジプトでの奴隷状態からようやく逃れてきたのに、ふたたびエジプトの支配下に置かれることになったことを、なぜ無視するのか。

 このように考えれば、「合理的」な解釈はひとつしか残されていない。聖書における「出エジプト」はすべて創作なのだ。しかしこれでは、モーセの存在も、シサイ山での十戒の石版も、ヤハウェの命令によるカナン征服も、すべてつくり話になってしまう。

イスラエル王国以前に強力な統一王国はなく、しかもイスラエル王国は「ユダヤ教」ではなかった

 モーセが架空の存在であったとしても、ユダヤ人が古くから「約束の地」で暮らしていたことは、族長時代を経て、「威厳に満ちたサウル、勇気あるダビデ、賢いソロモン王」という3人の王が、北のイスラエルと南のユダを統一し、紅海からアッシリアのダマスコ(ダマスカス)に至る大帝国をつくったことで明らかだとされる。

 だがサンドは、統一王国の首都であったエルサレムの大規模な発掘作業が1970年代に行なわれたものの、ダビデとソロモンの時代とされる紀元前10世紀に、強力な王国が存在した名残を発見できなかったとする。「記念碑的な建造物のいかなる証拠も、城壁も、壮麗な宮殿も見つからなかったし、土器も驚くほど少ししか出土せず、出土したものもひどく貧弱な様式だった」のだ。

 聖書の伝承によると、ソロモン王はハツォル、メギド、ゲゼルなどの北部の町を再興した。そのハツォルからは巨大建造物、メギドでは宮殿の城門の廃墟が見つかったが、「残念なことに、これらの城門の建築様式は紀元前10世紀よりもあとのものであり、サマリアで発見された前9世紀の別の宮殿に似ていることが明らかになった」。炭素14を用いた年代測定でも、北部地域の巨大建造物は統一王国のソロモンによって建てられたものではなく、イスラエル王国時代のものだとされている。

 アッシリア南部(イスラエル北部)に人口が多く、ゆたかな王国が存在したことは、アッシリア王シャルマネセル三世の「黒いオベリスク」と呼ばれる碑文などから間違いない。一方、南のユダ地方にはその当時、王国と呼べるような政治的実体はなく、エルサレムも小さな砦のような町以上ではなかった。「この地方の一角に、ダビデ家と呼ばれる王朝が存在したかもしれないが、このユダ王国は、おそらくはそれ以前に出現した北部イスラエル王国よりずっと小さいものだった」とサンドはいう。

 イスラエルの公式史観にとって都合の悪いことに、さまざまな考古学的発掘の結果は、カナンのひとびとが一神教を信じていたのではなく、当時、中東で一般的だった多神教徒だったことを示している。そのなかでもっとも人気のある神がヤハウェで、「それがギリシア人におけるゼウスやローマ人におけるユピテルと同じように、徐々に主神になっていった」のだ。

 このようにして、モーセだけでなくダビデやソロモンも架空の人物になってしまった。「栄光に満ちた統一王国は決して存在したことがなく、ソロモン王は、700人の妻と300人の側妻を住まわせるほど広い宮殿をもっていなかった」とサンドはいう。「イスラエル王国」はたしかに存在したものの、そこにいたのは「異教徒」だった。なぜなら、「ユダヤ教」がまだ成立していなかったからだ。